金と女

いろいろエッセイヨガ
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 結局、わたしは成功したいという思いが捨てられないのだろう。そして、それに加えてモテたいのだろう。このブログの記事の今までのタイトルを眺めていたら、そんなことを思った。そして、それが全然かなっていない現実を何とか、なだめすかして、ああでもない、こうでもないと言い、いや、成功したりモテることなんて意味がないんだよ、みたいなことさえも言って自分を落ち着かせようとしている。
 本当はほしいんじゃないの? 金と女が。
 インドの聖者のラーマクリシュナは人を神から遠ざけるものは金と女だと喝破した。彼の言葉を受けるまでもなく、大抵の世の中の問題というものは金と女に集約されるのだと思う。週刊誌の見出しにしても、ほとんどが金と女、つまりは金銭欲と色欲が問題の根っことしてしっかりある。
 昨日、わたしは髪がだいぶ伸びてきたものだからどこへ行って切ろうかと思案し始めていた。どうせならカッコ良くなりたい。もう40代だけれども、いい感じのいい男になりたい。となれば、床屋よりも美容院だ。美容院へ行けばカッコ良い頭にしてもらえる。そうすれば、きっと街を歩いていても女の子に一目置かれたり、「いいなぁ。カッコいいなぁ」と羨望の眼差しできっと見てもらえる。
 単純なわたしはすぐにメンズの髪型の本を注文したいと思った。「こういう風にしてください」と美容院へ行く時に持って行くためだ。
 が、事態は意外と言うよりも、もっともな方向へと進展していく。そのメンズの髪型の本を探していたら、いつの間にか、見た目に関する本にたどり着いていたからだ。
 とすれば泥沼にはまるのは言うまでもない。いろいろと検索して様々な本を見つけるにつれて、だんだん自分自身が何を求めているのかが分からなくなってくる。自分の軸がだんだんブレ始めてきて分からなくなってきたのだった。検索していろいろな情報にふれればふれるほど分からなくなる。そんな有様だった。
 わたし自身の置かれた状況を俯瞰してみれば、明らかに不利な状況に置かれていることは事実だと思う。精神障害者で吃音で無職の年金暮らし。そんな社会の底辺に近い場所で生きているわたしをほしがってくれる女の人なんて滅多にいるわけがない。だから思ったよ。髪型でできる男を演出してとか、そんなことをするよりも手っ取り早くモテるには仕事をすることじゃないか、って。仕事しないで無職でいて、モテようだ何だなんていうのはワガママなだけなんじゃないか、ってね。
 精神障害と吃音という特性もモテにとっては致命的なまでの足枷。精神障害がある人は大抵、対人関係が苦手なことが多いし、コミュニケーションだってぎこちなかったり、相手に魅力的だと思ってもらう上ではネックとなる。また、吃音にもそういった面があって、女性から憧れてもらうどころかまるで庇護の対象として「大変な人なんだね」目線で見られてしまい、恋愛対象とかパートナーとして選んでもらうことが難しくなる。わたしが自分のことを吃音だと明かすと、何か急に相手が優しさ全開の聖母モードに切り替わるのだ(公民館の講座でみんなの前で自己紹介をする時に言葉が出なくて固まってしまって「わたしは吃音で」と言った時にその場の空気が急変した時の体験から)。この人はいたわって保護してあげなければならない。相手は弱者なんだからっていう切り替えが急になされる。対等な関係を築こうとしても一方的に保護されてしまうのだから、見下されたり馬鹿にされたりすることは論外としてもこれはこれでやりにくい。
 こんなわたしだから、そういったうまくいかない状況を何とかするための薬のようなものがほしくなるのは言うまでもないこと。その薬が宗教だったり、社会的に成功したりモテたりすることを批判したりそれらが意味がないとする言説だったりする。まぁ、自然な流れで何やかやそういったものを利用して、マルクスが宗教をアヘンだと言ったように、自分自身の現状を何か心地いい薬でごまかしている、あるいは正当化しようとしている現実がある。
 となれば、わたしの選択肢は大まかに二つあって、一つは社会的に成功したりモテたりすることを目指していく道で、もう一つはそういったものを目指さない道。
 ヨガの帰りに途中下車して海に行き、ただただそこにいて波しぶきを見て、潮の匂いをかいで、潮風を受けているとわたしは何をこだわっていたのだろうと自分が執着していたものに気付かされる。金と女がほしい。たしかにほしいという気持ちはあるのだけれど、海に行って波を見ていると、それが急にどうでも良くなってくるから不思議だ。
 もしかしたら、世の中のほとんどの物事というのはどうでもいいことなのかもしれない。わたしが成功するかどうか、モテるかどうかなんてことはまずどうでもいいことで、大抵のことはどうでもいい。どうでもいいなんて言ってしまうと無責任なように聞こえるかもしれないけれど、海に行きそこでぼーっと波を眺めているとそんな風に思えてくる。
 この世の中というか社会ではみんなが「もうどうでもいい」なんて無責任なことを言わずに懸命にその中で生きている。わたしを含めてみんながそういった誰かの頑張りから恩恵を受けて、そうして暮らしている。わたしはそうした営みからの恩恵を享受しながらも、それを否定しようとしているわけだから何ともそれはひどい話ではある。
 でもわたしは思う。成功してもしなくても、モテてもモテなくても、人はいずれは死ぬ。100年後にはもう今この地球上にいる人はみんな死んでいる。お金をどれだけ稼いで巨万の富を築けたとしも死ぬ時にはそれを持って行くことはできないし、モテまくって自分の子孫をたくさん残せたとしても人類がいつまでこの地球上で繁栄していられるか、もっと言うなら、いつまで人類の歴史が続くのかということは誰にも分からない。
 だとしたら何を指針にして生きていったらいいのか。ある人は宗教の教えだと言うかもしれないし、また別のある人はこの世の快楽だとか心地良さを挙げるかもしれない。
 そして、その、人の数だけある指針の中で、わたしが今、志向している指針というのが、「今を生きること」なのだ。とにかく今にいて、今をしっかりと感じて、今を生きる。しっかりと見て、しっかりと聞いて、しっかりと味わって、と五感をとにかく今に集中させる。意識を今に持ってくるのだ。つまり、これは何となくぼんやりと生きるというあり方とは対極にある醒めたあり方なのだ、とわたしは思っている。
 となれば別にいいじゃないか。金と女を得られなくても。もっとわたしにとって身近なことで言えば、ブログのアクセス数が少なくても、SNSでほとんど無視されるに近い状況であっても、収入がわずかであっても、彼女がいなかったり結婚できなかったとしても。今を生きることができていればそれでいい、というのもアヘンのようなものかもしれない。現実逃避と言ってしまえば、そう言えなくもない。でも、金と女を手に入れるのも同じようにアヘンなのではないか、というツッコミを入れることができると思いますけどね。
 究極的には何も必要としない人というのが最強なのではないかとわたしは思う(現実的には「何も」必要としないは無理だから「少ししか」必要としない人が最強ということになる)。だって欠乏間だったり空虚感だったり満たされない気持ちを埋めたりする必要がないほどその人は満たされているのだから。何かをやったり何かを得ること自体を否定したいわけではないのだけれど、何かがないと生きていけないというのは健康的だとは言えないはずなのだ。金と女がなければ生きていけないとしたら、それらはその人の満たされない気持ちを満足させるためのアヘンのようなもの。だから、案外そういう人は弱いし脆い。
 だからこそ、逆にその自分自身に必要な薬のようなもの(人や物など)が少なければ少ないほどその人自身が豊かだということなのだ。その人がただいるだけでほとんど何も持っていないけれど満ち足りている。それこそが満たされている人なのだと思う。それと比べたら、あればなければ、これがなければと足りない、足りないと言っている人は貧しい。
 今にいる。今、ここにいる。煩悩にまみれたこの世の中でどう生きるか、生きていくか。そのあり方が今、わたしたちに問われている。

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