恵まれているわたし

 わたしの心をざわつかせるもの。それは言うまでもなくお金だ。お金に絡んだり、そのことを持ち出されると途端に気持ちが揺れ動く。揺れ動いて不安定になる。
 わたしが以前見た番組で一番頭に来たものがある。それは50代の人向けの老後のお金についての番組で、本当にあれは怒り心頭ものだった。なぜその番組を見たかと言うと、母から録画しておいてと頼まれたからだ。で、物の試しにとわたしは検閲するもりはないものの、母に見せる価値のある番組なのかどうか確かめてみた。
 何が頭に来たかと言うと、その番組に登場してくるお悩みをかかえた相談者の言うことだ。彼らがお金の専門家(たしかファイナンシャルプランナーとかだった)に自分の悩みを相談していくという形式を番組ではとっていたのだけれど、それが実に贅沢な悩みなのだ。ある人は研究職についていて月収が100万円くらいあるらしい。で、そのお金をどうやりくりするか、ということで悩んでいるというのだ。んなもん、無駄遣いをやめて慎ましく生活すればいいだけだろ、とわたしの心の声は叫んでいた。
 そして、お金の専門家の言うこともいちいち鼻につく。「通信費って何にも考えないで使っている人が多いと思うんですけど、考えて使えば3~4万円は浮かせることができますからね」ってカチーン。その浮かせる分くらいのお金を最大限に活用しながら何とか慎ましく生活しているわたしは一体どうなる?
 何だかこの番組を見たら自分がみじめでどうしようもなくかわいそうにすら思えてきた。普通の人ってこんなんなの?、と我が家の経済状態とのギャップに驚くと同時に、怒りすら覚え始めたのだ。
 ってこのブログって「ポカポカ系クリスチャン星さんのブログ」でしたよね? 全然ポカポカしてませんけど。ポカポカ系じゃなくてイライラ系とか不満系になってるよ。いかん、いかん。ついここまでで本音が出てきてしまった。
 でも、わたし自身彼らを批判しているものの、世界に目を移せばわたしよりも食うや食わずやの貧しい人が何億といるのだ。わたしは日本に生まれた。だから、裕福とは言えない暮らしぶりとは言えども必要最低限の暮らしはできている。もしもわたしがインドなんかの発展途上国の貧しい家庭に生まれていたらどうなっていただろうか。日本人には想像すらできないような劣悪な生活をしていたことだろう。だから、世界にいる貧しい人がわたしの個人的な悩みなどを聞いたら「はぁ?」と思うはずなんだ。「お前、何言ってるんだ。こっちはもっと大変なんだぞ」ってね。食べ物が高くて買えなくてお腹をすかせている人が、日本人のある人の「残留農薬が気になって仕方がありません」というお悩みを聞いたら憤慨するだろうし、「やせたいと思っているのに食欲に負けてしまって一向にやせないんです」という言葉にも骨と皮になっている人からしてみたら「あなた何言ってるの」という敵意を向けられることだろう。
 こんな現実を目の前にすると、この世界はどこかおかしいなんてものではなくて、完全に狂っているとしか言いようがない。世界人口がついに80億人を突破してもう世界は70億じゃなくて80億になったんだけれど、そのうち栄養がしっかりと摂れていない人は数億人にも及ぶんだ。しかし、その一方で世界の上位数%の人たちが富を独占している。一人の人間にそんなにお金要らないだろ、って心の底からわたしは思う。その金持ちの持っているお金の0.1%でもいい。それを貧しい人たちに分けてあげたらどれだけ多くの命が助かることだろうか。
 だからわたしは自分がみじめに思えてくる時には世界の貧しい人々のことを思い出すようにしている。これは自分よりも下を見て安心したり慰めを得たりするというとんでもない言語道断な態度なのかもしれない。貧しい人々はわたしに比較されて自分の方がましだと思うためにこうした貧しい生活をしているわけではないからだ。でも、それでもわたしは彼らのことを考える。偽善なのかもしれない。いや、「なのかもしれない」ではなくて明らかに偽善だ。しかし、彼らの姿が視界に入ってくる時、自分が何てわがままだったのかということに気付かされるのだ。わたしには日々の糧も、住む家も、衣服も、快適な衛生環境も、人間関係も、細々と勉強できるだけのお金も与えられている。わたしにはそれらが豊かに与えられているんだ。それが自分よりも恵まれた人とか成功した人に視線を移すと見えなくなってしまって、ぶつくさと不平不満ばかり言うようになる。でも、与えられているんだ。これだけ与えられていれば格別の贅沢はできなくとも、餓死することはおそらくないし、行き倒れになることだってない。少なくともわたしはここまで生きて来れたし、これからだって生きているだけのものを持っているじゃないか。
 人間はもしかしたら自分のことを知るためには他者の存在が必要なように、自分の置かれている状況を位置づけるためにも他者は必要なのではないか。世界にわたし一人だけしかいなかったら、わたしがどういう人か分からない上に自分が経済的に貧しいのか豊かなのかということもおそらく分からないだろう。だから、他者との比較によってしか自分の位置というものは定めることができないのかもしれない。
 自分が持っていないものではなくて、持っているものを認めた上でそれを持っていることを味わいかみしめる。そうした態度こそがこれからの時代に求められていくのではないかとわたしは思う。たとえそれが他の人から見て粗末なものでしかなかったとしても、それだって自分にとっては尊いものなのだ。いや、もっと先へと進んで行って不要なものをそぎ落としていく、という方向へと向かうのではないかという予感さえする。むやみに自分が持っていないものを欲しがるのではなくて、持っているものに目を向けて、むしろ要らないものをきれいさっぱりと手放していく。そんな生き方へとこれからの時代、シフトしていくんじゃないかなぁ。足し算から現状維持、そして引き算へと生き方が変遷していく。そんな風に思えてならない。
 と言いながらもわたしの部屋はごちゃごちゃしているので(わたしの頭の中みたいに)、ぼちぼちお片付けから始めてみようか。
 想像力を働かせて貧しい人たちに思いを馳せる。偽善? 偽善なんだろうな。でも、足りない、足りないと不平不満を言い続けるよりは偽善であっても、いや悪でさえあっても満更悪い方向性ではないと思うのです。少なくともそこには感謝が生まれてくるのだから。
 わたしを生かしてくださっている神様の恵みに感謝することを忘れないようにしていきたい。いつもの現実が、代わり映えのしない毎日が反転したかのごとくキラキラと輝き始める。

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