美しいメリット

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 わたしたちは普段、何気なく「ありがとう」と言う。何かをやってもらった時や助けてもらった時などに感謝を伝える言葉としてだ。じゃあ、何もしてもらったわけでもないのに「ありがとう」と言うのはおかしいのだろうか。
 わたしが格闘してきた問題。それはメリット、利益の問題で、人間は結局メリットがなければ感謝しないのか、という身も蓋もない問題だ。人間はメリットを求めている。でなかったら何も行動しない。この強靱な理屈の前でわたしたちは黙らされているしかないのか。何もメリットがなくても人に感謝して誰かを愛することができるのか。究極の難問であると思う。
 これを確かめる方法があることにはある。道の通りすがりの人に「ありがとう」とわたしたちは感謝するだろうか。おそらくしないだろう。したとしたら、絶対変な人だと思われる。おかしな人だと思われる。通りすがりの人に「通りすがってくれてありがとう」。いや、これすらもその人が通りすがったことによってメリットを得たことに感謝している。だから、本当の意味での無私な感謝ではない。自分がメリットを得たからこその感謝でしかないからだ。
 では、何か害悪を及ぼされた時に、それでも「ありがとう」と感謝するのはどうなのか。これもなぁ、害悪を及ぼされたことがメリットになってしまっているんだ。
 というか、感謝という行為そのものが何かをしてもらってそれに応答しているという種類の反応なので、やはりメリットのない感謝というのはないのかもしれない。感謝とは何かを受けてそれに応答していること。だとしたら、やはりメリットの束縛から解放されることは無理な話なのだろうか。何だかメリットなしの感謝や愛について考えるのが無理なような気がしてきた。
 これはヨブ記のサタンの言葉なのだけれど、本当に手強い。というか手強いを超えて、それすら突破することが不可能であるかのように思えてくる。
 ボランティアも犠牲による死も殉教もすべてより大きなメリットを求めて行ったこと。だから、ある意味、利己主義者だということになってしまうのだろうか。こんな崇高な精神であっても、ここまでこき下ろすことができてしまうことに驚きながら、サタンの仕掛けた網の目の細かさにただただ困惑するばかりだ。
 どんなにわたしがこのサタンの言葉から逃れようとしても、どこまでもどこまでもこの言葉は追いかけてくる。それはまるで月や太陽を見ながら走ってもそれらが付いてくるような感じと言ったらいいだろうか。逃げても、逃げても追いかけてくる。まるでわたしたちがサタンの大きな手のひらの中を全力疾走しているみたいな、と言ってもいいだろう。お釈迦様の手の中を飛び回った孫悟空のようにわたしたちはサタンの手の中でジタバタするしかないのかもしれない。
 反論するのが難しい。いや、そもそもこれは無理な話なんだ。この世にはメリットを超越した感謝や愛などというものはないのだ。だから、メリットを受けてそれに感謝している。メリットがあるから愛しているに過ぎないということを認めざるをえない。って話が身も蓋もなくなってきてる。でも、これが真実なんだ。
 ここまでサタンにボコボコにやられながら、ではどうしたらいいのだろうか。わたしたちは所詮メリットありきで動いているに過ぎないのだろうか。
 もうこうなったらどうするかと言えば、最終手段に訴えるしかない。どうするか? 開き直るのだ。「わたしが行動しているのはメリットを得るためですけど、何か?」と逆ギレして開き直るしかないのだ。残された道はサタンの言うことに対して、「そうですけど、だから何か?」と開き直って向かっていくことくらいしかないように思うのだ。
 何もこれは人間だけの話ではない。地球上のありとあらゆる生きとし生けるものすべてがメリットを求めて行動しているのだ。でなかったら地球上の生物は絶滅していることだろう。生きること。それはメリットを求めてより良くなっていこうという意志ではないかと思う。より良い住処を得る。より良い食べ物を得る。より良いパートナーを得る。より良い子孫を得る。よりよく生きていきたい。こうしたことがあってこその命なのだ。
 だから、メリットとは本能的なものではないだろうか。生き残っていくために必要な戦略。それがメリットに従うことなのだ。
 でも、人間は時にはメリットに逆らうことがある。メリットに逆らって愚かな振る舞いをすることがある。けれど、それだって愚かなその振る舞いにメリットを見出しているがゆえなのだ。
 本当に人間がメリットを求めない、求めていない時というのは、何となく何も考えずに、何も感じることなく行動する時なのかもしれない、と今思いついた。でも、それすらも何となく行動することを脳が何らかの意味でメリットがあることだと認識してそれを行動に移している。うーむ。結局、これもメリットからは逃れられていない。あばば。これも無理か。撃沈。
 さきに開き直ると書いたけれど、どう開き直ったらいいのかと思われたことだろう。開き直り方にもいろいろある。もちろん、逆ギレみたいに開き直るのだけれども、何というか高尚なメリットを目指していくのが得策じゃないかなって思うんだ。そうだな、利他的な行動をしてそれに喜びを感じるようなメリットと言ったらいいだろうか。まぁ、それすらも結局は利他的と言いながらも利己的なのかもしれないけれど、利己的でしかない利己的な振る舞いというのは高尚ではない。
 高尚で美しいメリット。それは誰かのために何かをすること。それが極限まで行ったのがイエスさまの十字架で、わたしたちはこれをしっかりと見据えておく必要がある。誰かのために代償を払って行動する。それこそが高尚なメリットを求める行動ではないだろうか。徹底的に利己的にあろうとすると徹底的な利他を行うことになる。この逆説、この逆説こそが真理でないかとわたしは思う。
 どちらにせよメリットの呪縛から逃れることは人間にはできない。だったら、そのメリットを求めてしまうことは認めた上でより美しいメリットに殉ずる道を探すのがいいのではないか。
 とは言いつつも、わたしはすべての人に誰かのために死ぬように、などと言うつもりはない。それは一番難しいことだし、万人にできる気軽なことではないと思うからだ。でも、そこまで振り切らなくてもできることはある。本当にそんなこと意味ないでしょ、くらいなところから行くのであれば、友達や家族にお茶のペットボトル、缶コーヒーをおごることかな。でも、たしかに身代わりに死ぬことなどの崇高な行いに比べたら、こんな何かをおごることなんてちっぽけすぎて意味がないと思われるかもしれない。でもね、お茶とか缶コーヒーおごるのだって、小さいけれど自己犠牲じゃないですか。自分のお金を犠牲にしているじゃないですか。話がちんけすぎる? 話が小さすぎる? いやいや、小さなところから攻めるのです。まずは、自分の身の回りの世界から攻めていく。自分の身の回りのことすらできない人間に殉教とか犠牲になることができるわけないと思うんだな。小さな、それも本当にくだらないくらい小さな自己犠牲から始める。でも、何もやらないのに比べたら大きく前進しているわけだし、世界を確実に良くしているよね。
 崇高で高尚なメリット。それは美しいものだとわたしは思う。たとえそれをサタンが「利益を求めてのことだろ?」と追い詰めようとしてきても「そうですけど、何か?」と開き直るだけの価値がある、そんなメリットだと思う。誰かのために何かをする。何かをやる。それって仮にそれが利己的なメリットを求めての偽善でしかなかったとしても、それでも美しいよ。こうして開き直ったわたしは確実に前へと踏み出している。
 サタン、お前の言う通り人間はメリットを求めて行動しているけれど、だからって捨てたもんじゃないぞ!!

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