大事な人のために作るお料理のように

いろいろエッセイ
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 SNSを見ると、新聞を見るとビッグに活躍している人たちの姿が目に飛び込んでくる。何千、何万ものいいねが押されているコメントに、何十万部も売れているベストセラーの本。そんな様子を見てしまうと途端に自分自身がとても貧相に見えてきてしまう。何も成し遂げていない自分。何も大きなことができていない自分。何かで成功できていない自分。
 でも、たしかにそれらはすごいのだけれど、大きな影響力を及ぼしていてすごいのだけれど、それだけではないなとぽつりと言いたくなってくる。
 最近のわたしの生活。週3で朝のアシュタンガヨガのマイソールクラスに参加して練習をしに行く。街へそのために出掛ける日は大体、家に戻ってくるのが朝の9時半頃。街へ行かない日もだいたいそれくらいには朝食が終わっていて、さぁ何をするかなというところ。で、わたしはそれから何をするかと言うと、買い物へ出掛ける。スーパーへ行って食料の買い出しをしてくるのだ。それもここんところ連日、そう、毎日のようにお買い物へ行く。そして、買うものをメモしたのを見ながら上限の金額で収まるようにお買い物をする。もちろん、買い物へ行く前には大雑把に買う物とそのおおよその金額などを計算してそのメモに書き出す。我ながらすごく主夫だと思う。そして、そうこうして買い物を終えて帰宅すると、今度はお料理を始める。最近では毎日のように何かしらのカレーを作っていて1時間とか、もう少しかからない時には4、50分くらいでカレーを作り終える。
 とやっているともうだいたい12時近くになっている。カレーもできたことだし、母と二人でそのカレーを食べる。毎度のことながら腕を上げたのかメチャンコうまい。本の通りに作っているので、まだまだ創作とかアレンジといったレベルまでは到達できていないけれど、それでもメチャクチャうまい。もう既に普通のお店のレベルをはるかに超えていて「おいしい、おいしい」と二人でご満悦にひたる。あまりにも美味しいので食が進み、少々わたしなどは食べ過ぎてしまうのがお悩み。でも、うまい。カレーうまし。カレーの沼にはまっているわたしである。
 ここまでお買い物の話とお料理の話を書いてきたけれど、そのわたしの働きに対して母が昨日言ってくれた言葉がすごく心にしみてじーんと来た。それは「わたしは息子にご飯を作ってもらえるなんて最高に幸せ。これ以上の幸せはないよ」といった言葉で(完全に正確にその言葉を再現できていないけれど)何だかわたしはほろりと来そうになったのだ。
 わたしの影響力。どれだけの人に影響を与えているかという規模だったりその大きさや程度だったりはたかが知れているのかもしれない。だってヨガをやって、お買い物をして、お料理をして、読書をして、お散歩をして、それで気の向いた時にこうして執筆をしているくらいなのだから。わたしの市場価値なんてほとんどないに等しくて障害年金をもらっているわけだから、社会のお荷物のようなものでプラスではなくてむしろマイナスなのだと思う。生産的なお金につながるようなことなんてほとんどしていなくて、ほぼ生産性はゼロ。でも、母がわたしのお料理を本当に心の底から喜んでくれていて、「おいしい、おいしい」と食べてくれて、「わたしは幸せ。ありがとう」と言ってくれる。何だか、ただの怠けている無職のプータローのお兄ちゃんでしかないと自分のことを否定的に見てしまっていたけれど、そうでもないのかもしれない。一般的な狭い意味での仕事はしていない。けれど、わたしは確実に今、母を幸せにできているのではないか。そんなわたしなりのささやかな労働は賃金が発生していないものの、これはこれで素晴らしいものなのではないか。誰かを、それも自分の大切な人を幸せにすることができている。しかもその人から感謝してもらえている。「ありがとう、ありがとう」と何度も言ってもらえている。これこそが仕事の本来の意味というか、原点なのではないかとさえ思う。自分の働き、やったことが誰かを幸せにする。そして、その人がそのことによって幸せになった様子を見て自分も嬉しい。そう、これが仕事とか働くことの原点。
 わたしの影響力は本当に限られていて狭くて決して大きいとは言えない。ブログにしろ、お料理にしろ、その影響力はたかが知れていると言ってしまえば知れている。あなたは何人の人を幸せにできていますか? 何人の人に希望を与えることができていますか? そう聞かれたらわたしのお料理なんてたったの一人だ。でも、それがたったの一人であったとしても大きな喜びだったり幸せを与えることができているのなら、それだって立派なことなのではないか。大規模に何十万人とか何百万人とかの人を幸せにするようなそんな大きな仕事もあることにはある。でも、それだけがすべてではない。そのビッグな仕事とわたしのたった一人のために作るお料理、そのどちらが価値があって素晴らしいのかとジャッジすることほど意味のないことはない。
 そう考えたらこのブログのアクセス数が伸びなくてぽつぽつとしか記事を読んでもらえていないことも別にいいじゃないかという気がしてきた。数じゃない。量とか数じゃなくてその質、もっと言うなら深さ。もしかしたらわたしのこのブログに励まされて深く感動している人がいるかもしれないのだ。それは数名。いや、一人なのかもしれない(もしかしたらゼロかも)。でも、もしかしたら誰かにこのわたしの言葉が届いているのかもしれない。号泣ものの大きな感動を与えることはできていなくても、ささやかな感動を与えることはできているのかもしれない。中にはわたしのこのブログが更新されるのをいつも楽しみにしてくれている人がいるのかもしれない。「かもしれない」ばかりだけれど、その可能性はゼロではない(ゼロに近いけれど)。
 世の中ではとかくビッグなことが礼賛される。たくさんの人たちに夢と希望を与えることがとにかく素晴らしいという空気が流れている。でも、だからといってわたしが作るささやかなお料理に意味が全くないとか価値がないということにはなるまい。大きな仕事も、そして小さな仕事もそれぞれ意義があって価値がある。と言いながらも、誰かのためにやる小さな仕事、それもたった一人のためだけにやる仕事は何て贅沢で貴重であり豊かなのだろう。その人のためだけに時間と労力を使い、エネルギーを注ぎ出すわけなのだから。
 このまるで数が正義であるかのような時代にあえて誰か一人のためだけに何かをするということの尊さには計り知れないものがある。今日も自作のカレーがおいしかった。「おいしいね」と母と楽しく食べることができた。すごく贅沢な生き方をさせてもらえています。ありがとうございます。感謝感謝です。



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