甘い誘惑

 わたしは素直すぎるのだろうか。そして他者からの言動に影響を受けやすすぎるのだろうか。今朝、久しぶりに新聞を読んでいたら、前のように気持ちが滅入ることは豆腐メンタルから厚揚げメンタルに成長したせいか、なかったんだけれどやっぱり他の人、ならびに本のことが気になり出す。特に本の広告とか書評が出ていると、本が好きなわたしは読んでしまう。そして、いいなぁ。こんな世界もあるのかぁ。この人はまた新しい本を出した。すごいなぁと購買欲を刺激されると同時に羨望の感情がわたしの中に生じてくるのだ。
 新聞にはわたしよりもすごい人たちがうじゃうじゃ載っていて、紹介されていて、それはそれはキラキラ光って輝いている。今までのわたしだったらそんな彼らと自分を比較して落ち込んだり、気を滅入らせたりしていたことだろう。が、特にそういうわけでもない。けれど、自分には何ができるんだろうか。自分は今、何ができる人だと人様に言えるのだろうか、などと、うーむと考えてしまって、実に自分が中途半端な人間のように思えてきて仕方がなくなるのだ(って結局比較し始めちゃうわけなのかな?)
 わたしが人様に誇れること。アピールできることって言ったら何があるだろう。そうだな。まず吃音者であること。それから、精神障害者であること。その中でも統合失調症の患者だということ。そして、何より忘れてならないのはクリスチャンであること。これら三点くらいだろうか、わたしが誇れることって。あと、ネガティブな経験としては自殺未遂経験者であることとか、両親が離婚していることとか、それくらいかな。でも、何もネガティブなことを誇る必要もないかな。それよりも自分が吃音であることとか、精神障害があることとか、クリスチャンだということを誇った方がいいだろう。
 最近では自分が吃音者であることとか、精神障害者であることとか有り難いことに忘れていることが多い。だから、そうした属性よりもむしろ自分がキリスト教徒であるという意識の方が強いようなそんな感じなんだ。
 そんなわたしが日々選択していること。それらによってわたしは形作られていて、そして日々変化し続けている。そのやっていること、やっていないことの種類、組み合わせ方、度合いなどいろいろ混じり合って今のわたしが出来上がっている。いや、わたしという織物は今も常に続きが織り続けられていて、わたしは拡張され続けているのだ。あるいは、わたしを一冊の本にたとえるなら、わたしという長編の物語は今も書き加えられ続けていて、死ぬまでそれは継続されていく。
 わたしという織物には色々な糸が使われていて、それはそれは独自の色を醸し出している。わたしという長編の物語にはいろいろな出来事が起こって、いろんな人やものや事柄がやってきて、登場して、それはそれは面白く話が展開されていく。
 その織物なり、物語をある程度コントロールしようとするのが目標を立てたり、計画を立てたりすることではないかと思う。わたしという織物を青っぽくしたいと思えば、青系の糸を選んでいく必要があるし、わたしという物語を一つの目的へと方向付けるのだとしたら指針のようなものが欠かせない。と言いつつも、人生計画立てたところでどうなんでしょうねぇ、という気もしないこともない。綿密に人生の計画を立てて、思い通りに進めていく。それも悪くはないと思うのだけれど、人生なんていうものは思い通りにはいかないものなんじゃないかっていう風にも思うのだ。もちろん、ある程度計画を立てて指針を持たなければ、自分の目的地へとはたどり着かない。が、その目的を達成したところで「だから何?」とも思う。わたしはこの二つの考えに引き裂かれるまでいかないものの、立ち止まって考えている。
 もしかしたらだけれど、人生というものは自己満足にすぎないのかもしれない。どんなに頑張って何かを成し遂げたとしてもただ本人がすごく嬉しいだけ。なんて言ってしまうとわたしが今までやってきたことは何だったのだろうという気もしないことはない。20歳から読書を始めて曲がりなりにも覚束ない読書をしてきたおよそ20年という歳月。その努力は無意味だったのか。あれはしなくてもいい努力だったのか。そんなことも考えてしまう。でも、わたしは読書をしてきて今日までの時間、幸せだったし、今も本を読んでいるとエキサイティングで新しいことを知ることができてそれはそれは楽しい。だったらいいんじゃないの。仮にそれが「そんなの単なる自己満足だよ。おめでたい人だねぇ」という批判を受けるだけのことでしかなかったとしても、まぁ、いいじゃないの。本人がそれで喜んでいて楽しんでいて幸せを感じているんだからさ。それにその趣味なり活動をすることによって誰にも迷惑をかけたり、自分や誰かを傷付けたりもしてないしね。
 嬉しい。わくわくする。興奮する。幸せ。こうした喜びを得ようと人々は刻苦勉励する。精進してさらにいいものを作っていこうとする。だから、結局この快感を得たいわけだ。この全身をかけめぐる快感を得たいんだ。
 これから科学技術がどこまでも進んでいって、人間の快、不快を完全にコントロールできる時代がやってくるだろうと思う。そうなったら人類はどうなるのかな? その快感を得る機械に完全に依存するようになるのだろうか。まるで麻薬に依存してしまうかのように。何も努力しなくても、その機械さえあれば何かを努力して目標を達成したのと同じかそれ以上の快感が得られる。そうなったら、人間はどうなってしまうのか。おそらく堕落してその機械さえあればあとは要らないというようになってしまうんじゃないか。
 そんな機械が登場したら使いたいと思うかどうか。その機械が登場してもあくまでも自然な脳内物質の分泌のままで満足できるのか。なかなか難しい問題ではある。それはまるで何もしなくても絶世の美女が自分の前にたくさん現れて性的な欲望を充足できるようなそんな世界でもある。そうなったら、そうなったらその誘惑に抗えるか。ま、そうなったら世も末ですな。
 わたしが続けてきた読書。そして、それによって見えてきた豊かな世界。それすらも超人になれる機械(1億冊の本の情報を瞬時に脳にインプットできるような機械)などが発明されれば、これらの努力も不要になってしまうかもしれない。でも、いいんだ。この不完全で中途半端で頭の中が雑草だらけのわたしにこそ意味があるんだ。完璧に何かの分野を極めることは素晴らしいし、賞賛されてもいいとは思うのだけれど、それでもわたしがわたしとしてわたしをぶざまであっても中途半端であってもやっていることに意味があり意義がある。どんなに誰かと比べて劣っていたとしても、わたしの人生はその優れた人に代わりにやってもらうわけにはいかないのだ。わたしが、このわたしがわたしの人生を生きること、生きていくことにこそ意味があるんだ。だから、他の人が優れていようが、わたしがどんなに劣っていようがそんなことは関係ない。

 神様、どうかわたしが人と比べることなくわたしの人生を生きることができるようにしてください。そして、人間を自堕落にする甘い先進技術の誘惑に負けないようにわたしの心を律してください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。

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