祖父が死ぬ?

いろいろエッセイ
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 火曜日に施設から電話があり、市立病院へ行ってくださいとのことで、行ったら腸閉塞で入院になった星さんのおじいさま。で、その二日後、つまり昨日の木曜日に今度はわたしが病院に呼ばれた。何でも祖父の治療にあたってくれている主治医からすぐにお話があるらしい。何か電話の看護師がすぐに来て欲しい感を話し方やテンポや間などで表していたので空気が読める男のわたしは、これはきっと今後の治療方針について決めて欲しいということなのだろう、と思ってあまり身構えないで一人で病院へと向かったのだった(今回の祖父の入院のキーパーソンは母ではなくわたしがなっていて、医師からの説明は原則1名でとのことだったからだ)。
 病院へと着いたわたしは祖父が入院している病棟へ行き、コロナを警戒しての問診票に記入してさぁ、祖父の主治医と二日ぶりのご対面。何を言うのだろう。でも、そんな深刻なシリアスな話じゃないだろうからと思っていたわたしはその説明で面食らうことになるのだった。
 この2日間の経過をざっくりかいつまんで言うとこうなる。祖父が鼻に入れていた管を自分で抜いてしまいましたとさ。そして、おちんちん(と主治医は言っていたのでこの表現)に入れていた管も抜いてしまいましたとさ。めでたし、めでたし。っなわけねーだろ。祖父、何やってる? それ一番やっちゃいけないことじゃないの? 祖父、どういうつもりよ? ここでは明るく気持ちを持ち直すためにコミカル風に表現しておりますが、これはとても、というかかなり深刻な事態なのです。その結果どうなったかと言えば、誤嚥性肺炎になって、膀胱からは出血してしまったらしいのです。で、さらにその結果どうなったかと言うと酸素飽和度が低下してしまったらしいのです。人間は呼吸をして、酸素を体の脳や臓器などに取り込んでいるのだと医師は説明してくれたのですが、それが低下するとどうなるか、と言えば低下した状態が続くと危ない状態になり死ぬのです。急に、急に話が深刻になってきたでしょ?
 祖父の主治医は入院する時にわたしたち家族にこう言いました。「ないとは思いますけれど、入院というのは何があるか分からないので、一番最悪の事態に何が起こる可能性があるかと言いますと、誤嚥性肺炎になって命にかかわる事態になることです」。ってその一番やばい事態になってるわけ。一番あってはいけない事態になってるわけ。祖父が鼻に入れた管を自分で抜いてしまったがために、この最悪の事態が引き起こされたのだ。管を抜いたせいで祖父は吐いてしまったらしい。その時、その時に全部吐ききれないで気管のほうに誤嚥してしまったんじゃないか。そう医師はわたしに言う。誰も想定できなかった最悪の事態にわたしはただ「ええ」「そうですか」「はい」と医師の言葉の間に交代交代に繰り返すことしかできない。
 で、つまるところ祖父はいつまで生きられるの? もって一週間か10日かもしれないと気弱そうに医者は言う。でも、医者は予言者や超能力者ではないから何月何日にその人が死ぬとかそういうことは分からない。で、ぽつりとこんなことも言う。「もしかしたら今日亡くなってしまうかもしれません」。ってこの腸閉塞の治療をするだけのつもりで入院して二日後に余命宣告的な説明だなんて、階段を20段くらいすっとばしたような、劇的な展開としか言いようがない。この展開、テレビドラマでもそうそうありませんよ。
 高齢者ってね、すごくデリケートなの。で、医師は「ガタガタガターっていってしまうのが高齢者なんです」みたいなことも言う。何とかかろうじて均衡を保って生きながらえていた祖父がガタガタガターっと崩れてしまったのだ。
 祖父が、祖父がぁ死んでしまう。祖父の死が眼前に急に突きつけられて迫ってきて、そのことにわたしは凄まじい生命を脅かされるようなストレスを感じたのだ。何か、こういう時って笑っている祖父の顔しか頭に浮かばないわけですよ。その笑顔の祖父がもうじき死ぬ。死んでしまうかもしれない。もしかしたら今日にも明日にも一週間後にも。
 とわたしの中に凄まじい後悔と自己嫌悪の念が津波のように押し寄せてきたのだった。わたしが、わたしが祖父の入院に同意して入院なんかさせたから、祖父がこうなってしまったんだってね。不思議と目の前にいる主治医には何も憎しみの感情を持たなかった。いや、持てなかった。それ以上にこうした状況を到来させてしまった祖父への申し訳なさ、取り返しのつかなさがわたしを圧倒して責め立ててくるのだ。「ごめんね。ごめんね、おじいちゃん。わたしが入院なんかさせたばっかりにこんなことになってしまって」。
 気が付くと特別に面会を許された祖父の前で半分くらい泣きながら「ごめんなさい」としきりに何度も何度も祖父に謝っているわたしがいた。母はまだ来ていない。祖父と二人、病室の個室でいたのだった。それに対して祖父は酸素マスクをしていて(これで酸素飽和度を上げるのだ)、さらに入れ歯もしていなかったので発音が不明瞭で言葉がはっきり分からなかったけれど「いいんだよ、いんだよ」みたいなことを言う。自分に対して精一杯やってくれたんだから、よかれと思ってやってくれたんだから「いいんだよ」と言うのだ。その言葉は「大地、自分を責めなくていいんだよ」って言ってもらっているみたいでますます泣けてくるのだ。
 母がそれから病室に到着してこれまでの経緯をざっくりと説明したのだけれど、この急展開があまりに急すぎて飲み込めないようだった。「お腹が痛いのはどうなったの?」とわたしに質問していることからもそれが分かる。「もうお腹が痛いとかそれどころじゃなくなったんだよ」とわたし。
 看護師が一人、病室に入ってきた。体温と血圧を計ると言う。そして、それからまた別の看護師がやってきて新しい抗生剤の点滴を使うので5分ごとにアレルギー反応がないかチェックしてさらには血圧も計りたいのだと言う。その様子をただただ見守っている母とわたし。時間はいつもより遅くまどろっこしいくらい遅く濃厚に過ぎていく。
 その時、わたしは調子が悪くなっていた。精神的な不調である。どうも病院に長時間いるのが駄目らしい。それにこの祖父が死ぬかもしれないという大きなストレスに押しつぶされそうになっていた。いや、もうすでに押しつぶされていた。8割くらいは。わたしが調子が悪くなるとどうなるかと言えば、目の前の景色のちょっとした色や文字などが強烈な刺激となって迫ってくるのだ。そして、それがあまりにも刺激が強く感じられて苦しくなってくる。わたしの統合失調症の症状にはこうしたものはないはずなのだけれど、それでもこれが統失なのかもしれないと思うくらいに苦しい。パソコンはやっていない。いや、祖父の主治医の説明の時にCTの画像を少し見たか。まさか、それが原因? 分からない。が、ともかく調子が悪い。目の前のありふれた景色に、そして今、酸素マスクをしていろいろな管につながれている祖父の姿。この両者がわたしを脅かして圧倒してくる。苦しい。が、わたしは頓服のお薬をもう数年前に卒業しているので発作時の薬などというものはない。やりすごす。やりすごすしかない。
 自宅に着いても調子が悪い。まだ目の前の普通の物や景色が迫ってくる。明日のヨガ教室、行けるだろうか。明日の植木屋さんに来てもらって庭の木の剪定してもらうの、来年にした方がいいんじゃないか。とたんに弱気になってくる。全部が億劫になってくる。そして、自分が何もできない無能な存在であるかのように思えてくる。夕食に、わたしが昨日作った野菜スープを見ながら、「こんなに難しいことをやったわたしってどんだけすごいんだ」などと自分が簡単にやったことでさえも難行、偉業のように感じられてしまうのだ。少なくとも今のわたしは調子が悪くて何もできない。で、寝間着に着替えてベッドに入った。
 気分は大きく回復した。あの頭のもやもやや目の前の景色や物が迫ってくる感覚もなくなってきた。よかった。やっと日常を取り戻せたのだった。
 それから聖書の御言葉もわたしたち親子をしっかりと今回支えてくれた。聖書には思い悩むな、とある。その日の苦労はその日だけで十分で、明日には明日のことを悩めばいいのだと喝破する。先のことをとやかく考えてウジウジしていないで、今日この日を生き切ればそれで十分。そんな教えなのだ。わたしたち親子は祖父がいつ死ぬのだろうと未来を先取りして苦悩していた。が、そうではなくて祖父が亡くなったなら亡くなったで、その時その時、出たとこ勝負をしていけばいいのだ。もちろん、これから困らないようにしっかりと予防線を張ったり、準備をしておくことは必要だ。でも、それをやったらもう後は手放して神様にお任せしてお委ねする。それでいいんじゃないかってわたしは母に言ったんだ。と、一気にどす黒い嫌な空気は一変してすがすがしい空気が入ってきた。重い空気がだいぶ軽くなった。聖書の御言葉って本当すごい状況を変える力を持っているよ。
 わたしの携帯が鳴るとドキっとする。別にもう出たとこ勝負するつもりで開き直れたけれど、それでも病院からではないかってドキっとするんだ。次に病院から連絡があったらその時は危篤か亡くなった時なのだろう。でも、祖父に意識があるうちにわたしたち親子は祖父と話ができた。ちょっと会話がかみ合っていなかったけれど、それでも祖父は自分がこうなってしまったことについて誰もうらんではいなかった。「どうしてこんなところへ連れてきたんだ」みたいなことも言わないし、半分泣いて謝っているわたしに「いいんだよ、いいんだよ」とやさしく気にするなみたいな感じで言ってくれた祖父。祖父はどこまでも優しい人だった。そして、自分がこんな状況で死にそうなくらい苦しいはずなのに「絶対に無理だけはするなよ」みたいなことをわたしたちに言うわけ。もうこれには参ったな。参っちゃうよ。体温が38度5分だったその時の祖父。体は衰弱していて、意識も少しぼんやりしていたかもしれない。たしか1年半くらい前に「くたばれクソジジイのじいさんが死にそうになったことを通して考えたこと」という記事をわたしは書いたかと思う。その祖父が今また、今度も生きるか死ぬかの瀬戸際をまたもや彷徨っている。今度のは勝算が限りなく低くて、言ってみれば棺桶に片足を突っ込んでいるような状況だ。でも、祖父は懸命に必死で今も生きている。最後の最後まで自分のことよりも家族、身内のことを心配し続けた祖父。その姿にわたしは心を打たれるし、あぁ、おじいちゃんってすごいなって尊敬するのだ。わたしが祖父のような状況になったらきっと「わたしが、わたしが」になってしまって「わたしが苦しいんだからどうにかしろ」などとギャーギャー騒いでいるに違いない。
 祖父が死ぬとまだ確定したわけではないけれど、最後の姿というのがその人の生き様、人生、生涯を端的に表すように思えてならない。そういう意味で祖父は家族を大切に、大事にする人だった。何をおいても家族のことを優先して考える人でそこに祖父の優しさがあったのだ。
 わたしは何だかんだ言って自分がかわいくて仕方がない。だから、きっと祖父のようにはなれない。けれど、この祖父の家族を思う優しさをたとえ1ミリであっても受け継ぐことができたらいいなって思うんだ。おそらく祖父はわたしのおじいさんで祖父の遺伝子はわたしに受け継がれているから、きっと家族思いの遺伝子も引き継いでいるんじゃないかと思いたいし、期待したい。いや、そうした遺伝子云々がどうこうではなくて、祖父の素晴らしかった点をわたしはしっかり咀嚼して自分の血肉とするのだ。そして、もしもわたしが「あなたのおじいさんはどんな人でしたか?」と聞かれたら「家族思いの優しい人でした」とおだやかに答えたい。さらにはわたしがこれから結婚するのかどうかは分からないし未定だけれど、もしも子孫ができたとしたらその子どもなり、孫にわたしのおじいさんの話ができたらと思う。で、わたしがその自分の子どもや孫に「大地おじいさんは家族思いの優しい人でした」と死後に語って思い出してもらえたとしたら、わたしは祖父の優しさをしっかりと立派に受け継いだことになるのだ。もちろん、そうなるかどうかは分からない。子どもを持てるか、いやいやその前に結婚できるかどうかさえも分からないんだからね。でも、わたしが死んだ後にわたしのことを誰かが思い出してくれたらそりゃあ嬉しいな。別に有名人になることもなく無名の人で生涯を終えたとしてもね。
 死にそうな祖父。100歳まで生きられないだろう祖父。でも、その生き様、忘れないよ。
 大地じいさんは家族思いだったとさ。そのまたおじいさんも家族思いだったからね。めでたし、めでたし。おしまい。

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