人生の目的、意味、価値

 人生に目的はあるのだろうか、と考える時がある。それは決まって午後、日が沈み始めた頃で、これくらいの時間になると少しばかり感傷的になるようなのだ。
 人生の目的、そして意味。果たしてあるのだろうか。まるで中学生のようなそんな青い問いをわたしはまた持ち出している。
 わたしはクリスチャンだからついつい、というか当然のことのようにこうした問題をキリスト教的に処理しようとしてしまう。けれど、もしかしたら人生に意味なんてないんじゃないか、という気がする。意味なんかなくて、ただ人間がこの自分自身の人生に意味を見出したいだけなんじゃないかって思ったりもする。
 わたしが中学生の時どんなに考えても分からなかったのは、なぜ勉強するのかということだった。いい大学に受かって、いい会社に入って、いい結婚をして、いい子どもを持って、いい老後を送る。そして、いい家族に見守られながら息を引き取る。それはまるで決まりきった何の面白味も感じられない人生のレールのような感じがして、何だ、そんなことのために勉強しなければならないのか、と興ざめしたことを今思い出している。結局、これも勉強することに意味などなくて、ただいい人生を送るためには勉強しといた方がいいよ、というだけのことでしかない。
 意味。それも絶対的な意味がほしかった。絶対に揺らがない、誰にも崩せない、破壊できないそんな堅固な意味が。
 わたしがその当時の渇望に対して、何か一言物申すのであれば、そんな意味は神様以外には与えられないよ、ということくらいだ。少しばかり長く生きてきて賢くなった(?)わたしが当時のわたしに語れる言葉はそれくらいしかない。
 キリスト教的に考えるのであれば、人生は無意味ではない。なぜなら、神様がこの地上にわたしという存在をお造りになられたのには絶対に意味があると考えられるからだ。神様は意味のないことはなされない。必ずそのなされることには一つひとつ深い意味があって、そうしたお考えに基づいてすべてのことをなされている。だから、この地上に生を受けた者にはすべて尊い、何者にも侵害できない、そして破壊できない意味がある。
 でも、わたしの胸の内を明かすなら、時々信仰的に弱気になる時があって、そんな時には神様はいないんじゃないかって思ったりもする。全部この世の出来事は機会仕掛けになっていて、そこに神様はいないんだ。ただ、いてほしいといつの時代にも人間は思うものだから、神様という存在を作り上げていただけなんだ。そんな風に思ってしまう時がある。
 そうなると神様によって支えられていたわたしの価値や意味が一瞬にして灰色になってしまう。
 でも、それならそれでいい。わたしは神様がいると信じているし、いてほしいと思っているけれど、いないのならいないでいい。諦めと言うよりは、何と言ったらいいのか。開き直っているというのが一番しっくり来るだろうか。
 そして、わたしは神様から与えられた意味を一旦脇へ置いて、自分自身の意味を生きようとし始める。全然、キリスト教的でも何でもない。けれど、意味なんていうものは絶対的なものは神様由来のものだけだから、あとは各自の意味が並立しているだけなのだ。わたしの意味と、Aさんの意味と、Bさんの意味と、Cさんの意味と……。ってな具合に誰かにとっての意味あるものとか、価値あるものとか、そういうものしかない。それが社会にとって意味があるものだったり、多数の人々にとってのものだったりしても同じようなことで、それはただその複数の人たちにとって意味があったり価値があるだけのことでしかない。だから、わたしが価値があると思っていることでも別の人から見たらそうは思えなかったり、また逆もしかりなのだ。神様が指し示される絶対的な価値が存在しないのなら、ただ人々各自の価値があるだけになる。
 そうなるとわたしはわたしが価値があると思う信念のために生きて、価値があると思うことをやっていくだけになる。何も難しいことではない。しごく当たり前のことだ。
 わたしはわたしの信ずる目的、意味、価値に従って生きる。神様がいないのだとしたらそうするより他に仕方がない。わたしは神様が説かれている考えは真理だと思っていて、従わなければならないと思っているし、従いたいとも思っているのだけれど、もっと突き詰めて考えるなら、神様の推す価値だってそれは一つの考えであり価値観でしかない。だとしたら、絶対的な神様も相対化されてしまう。そうなってくると、じゃあ何を信じたら、何を価値あるものとしたらいいんだっていう話になってくるわけだけれど、そうなってきたら最終的には他の人の意見(神様も含む)も参考にしつつ、自分で決めていくしかないような気がするんだな。だって、自分が正しいと思えない信条や信念には当然のことながら従うことはできないし、自分が正しいと思う考えは少なくとも自分にとっては正しいからだ。
 神様がおられるにしろ、おられないにしろ、最後は自分で決めなければならない。何だかすごくドライな結論になってしまって恐縮だけれど、わたしはこう思う。
 日が沈み始めてきた。部屋が暗くなってきたぞ。黄昏時、少し感傷的になりながら自力で行こうとするわたしは愚かなのだろうか。神様にすべてを委ねるとしてもそれすらもそう自分で決断したことでしょ? などと不信仰なことを思ってしまう罪深いわたし。これでいいのか、と思いつつ日は沈んでいく。
 自分で決める、という凡庸な答え。でいいと思うんだけどなぁ。ダメですか?

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