ここで一句。「静けさや星さんブログ閑古鳥」

いろいろエッセイ
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 星さんは最近、放送大学のテキストを読んでまとめ記事を書いていたとさ。んで、そのまとめ記事が大変反響が悪くて、まさに閑古鳥が鳴くようだとさ。(記事のアクセス数1だからね。1。で、その1は母がアクセスした1だった。)だから、星さん、やる気がなくなってきてるとさ。そんで、ブログの方向性を考え直してるとさ。
 てなわけで、わたしの放送大学のまとめ記事、非常にウケが悪いのであります。まずタイトルからして面白くなさそうだと。工夫のないタイトル。かたそう。難しそう。つまり、とっつきにくくて面白くなさそう。こうしたいかにも敬遠したくなる要素にあふれているわたしの記事はやはり敬遠されたのだった。
 みんな、どんなものに興味があるのだろう?この初歩的なことを何も考えずにただ書きたいものを書いてきた。うーん、だからウケないんだわな。
 でも、「ウケるものを書こうとして迎合しまくるのって一体どうなの?そんな自分が書きたいわけではない記事書いてウケたところで嬉しいの?」などと孤高の陶芸家みたいなことを言ってる星さんなのだが、「人からの評価も必要なんじゃないの?」とつっこみが来そうだ。孤高の陶芸家だって誰かに壷を買ってもらってはじめて生活できるのだ。
 わたしはどうなりたい?要は人気者になりたいの?そんでもってちやほやされたいの?
 痛い質問だ。チクチクチクチク来る。
 わたしの願い。それは多くの人にブログを読んでもらって、多くの人から「元気が出たよ。ありがとう。」と感謝されることだ。それが一番の理想の姿だったりする。
 でも、「多くの人」という言葉がくせものだったりする。それが一人ではまずいのか?たった一人でも心の底から「いい文章だった。ありがとう。」と感謝されればそれでいいんじゃないか。数ではない。と言いながらも数を無視できない現状もある。けれど、わたしの方向性はふと冷静になって考えてみると、多数の支持を得ることにはない。もちろん多数から支持されれば嬉しい。でも、それが目的となってしまった時、そのわたしの文章はそれでも輝き続けていられるだろうか。
 たしか、ドリアン助川さん(で合ってるのかな?)が作品を一人の読者のためだけに書いているといったことをテレビで言っていた。みんなのために書いていると思うとき、その言葉は伝える力を失ってしまうんじゃないか。まぁ、作家さんでもみんなのために書いてます、って人もいるけれど、誰か一人のために書くのには敵わないんじゃないかと思う。
 数。本当は一人ひとり固有の個性ある人間が集まるから、数が生まれるんだけど、数として表現してしまうと、何か違うんじゃないか。よく、新聞に死者が○人とか書いてあるけれど、実は数字で表してしまうと、その人が立ち現れなくなってしまうとわたしは思う。固有名詞で表現してはじめてその人が立ち現れてくる。だから、アクセス数が10だとして、それはAさんとBさんとCさんと・・・、といった具体的な人間なのである。うーん、うまく言えないけれど、とにかく数に置き換えてしまうと、何か違うのだ。数にして表現した途端に表現された彼らの息吹が消えて無機質になってしまうというか。
 と気が付くと、またいい話をしようとしとる~。星さん、いい話をしてもアクセス数は増えないよ、多分。読者はいい話を求めてるんじゃないと思う。
 もっととっつきやすくて清涼飲料水みたいにシュワ~っと爽快になる話。そんな話を求めてるんじゃないかと思う。
「じゃあ、清涼飲料水みたいに万人ウケするようなとっておきの話をしようか。星さんにはとっておきの話があるよ。おもしろいよ~。」
「ってさっきしていたいい話と全然言ってること今違うだろ。誰か一人のために書くんじゃなかったのかよ。星、お前なぁ、完全に立ち位置見失ってるよ。一本芯を通せよ。芯を。」
「だってだってアクセス数がほしいんだもん。増やしたいんだもん。いっぱいいっぱいアクセスしてもらって人気者になってちやほやされたいんだもん。」
「だそうなので、星さんは大衆ウケする路線を突っ走るそうです。」
「そ、そ、そんな軽薄な男じゃないよ、星さんは。前言撤回。大切な一人の読者のためだけに書こうと思います。」
「アクセス数と自分のポリシーとの両立に悩んでるな、星は。」
 本音と建前、出尽くしたところで今回はお開きとしたい。最後まで読んでくれたあなたに感謝。ありがとうございます。


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