金はない。でも時間はある

いろいろエッセイ
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 お金のことで悩んでいた。などと書いてしまうとこれを読んでくださっている精神保健福祉士のWさんを心配させてしまうかもしれないから、言い方には気をつけなければとも思うのだけれど、それにしてもお金って世知辛いなぁって思う。
 一点豪華主義のミニマリズムを実践するがごとくヨガという習い事の一点豪華を始めたわたし。これはぜいたくをしている。それは分かっている。が、いかんせん家計のやりくりが苦しい。食費を切り詰めて、大好きな本代も切り詰めて、何とか黒字にも赤字にもならずのゼロ。と言うのはまぁ、計画というか理想であって、実際には何やかや諸雑費が発生して今のところ赤字が続いている。わたしの家計は大丈夫なのか? やっていけるのか? 大丈夫なのか、わたし?
 でも、おそらく大丈夫だろうと思う。何せ、わたしは楽観主義者なのだ。楽観主義。植木等のスーダラ節のごとく、スイスイスイ~っと切り抜けて参ります。って、それはおそらく無理。金勘定にスーダラも何もそんなものはなくて、使えば容赦なくマイナスになり引かれていく。
 というわけで、わたくしは今日の午後、ネットを見ておりました。何かいい情報はないものかと「障害年金 ミニマリズム」と検索してめぼしいブログなどを見ておりました。が、見れば見るほど気持ちが落ち込んでくるから、アラ不思議。何ていうか、書いている人たちがみんな暗いのだ。障害がある当事者だからというのは分かるのだけれど、その発信している情報が何せ暗い。そして、自分が障害がなければもっと稼いでみせるのにみたいな感じのことを書いていたりして、自分自身の障害というものを受容できていない。そう、彼らは稼ぎたいのだ。稼いで、稼いで今の暮らしを脱したい。少しでもいい暮らしをしたい。ぜいたくだってしたいし、遊ぶことにお金も使いたい。けれど、それが障害があることによってできないものだから、欲求不満が生じて葛藤している。そんな本音が垣間見られる感じがした。
 一方のわたくしは明るくカラっと書けていますでしょうか? わたしの場合、障害についてはな~んにもネガティブにはとらえておりません。何かね、普通の人とは違うところがあるにはあるけれど、これがわたしなんだから仕方なくね? これさえも否定してしまったらわたし自身を否定することになってしまうよ、と思っている。お金については、まぁ、あればあったでいいけれど必要以上は欲しいとか何だとか、そんな身の丈に合わないほどは求めていません。それよりは、自分の命である時間を自由に使えることの方に価値を置く感じだから、まぁ、嫌なことをしていない分、お金がないことは我慢いたします、というのが本音のところ。なんて、書きながらもわたしはね、爆弾を抱えているという自己認識があって、そう、死にたくなる病がまた再発してしまうと、ひたすら死ぬことしか考えられなくなるから、それでもうわたしの人生幕引きで終わってしまうわけ。今のところは統合失調症の症状もほとんど出ていないけれど、何しろこのいつ爆発しそうになるか分からない爆弾を抱えているがゆえに結構ハラハラものだったりするんだ。
 今、ふと思ったのがね、好きで障害があるわけでもないのに何で最低限度の生活に甘んじなければならないのか、ということでこれってすごく根本的なところじゃない? 自分が好きで貧乏生活を選んでいるのだったらまだ分かりますよ。でも、本当は障害さえなければもっと稼げていて、ただ自分が貧乏くじを引いたばっかりに貧しい生活を強いられている。それっておかしくないの、という話。そうした魂の叫びをブログで発信している人がいたのだけれど、それはそれで理屈はちゃんと通っているなって思う。共感はしないけれど、たしかにそうだなって。
 でもね、物は考えようで貧乏人にあるのは時間じゃないですか、とわたしは声を大にして言いたい。そう、時間はたっぷりあるのだ。お金はない。けれど時間はある。
 考えてみれば、たくさん、たくさん、それもほとんどの時間を働くことに費やして、多くのお金を得ていい暮らしをするというのも一つの生き方だけれど、それって本当に幸せなのかなってわたしは疑問に思うんだ。いわば、高価なものをたくさん買って、高級なサービスを消費する、ヘビーユーザーを目指すみたいなやつね。もちろん、その贅沢したりすることに至福を感じていて、そのためだったらボロボロになってもいい。働きづめでも何でもいいから、何がなんでもリッチな暮らしをしたい、と思うのであればわたしは止めない。でも、何ていうか、必要のない無駄な単なる贅沢品を得るために凄まじいほど自分の命である時間を使うというのは得策ではないとわたしは思う。その欲しいものを手に入れるために自分をすり減らして、どこまでもどこまでも削る。何かつらい生き方じゃないですか、って思ってしまうんだよ。
 わたしたち障害者にあるのは何よりも自由な時間で、働くことを免除されているがゆえのギフトではないかなぁって思う。と言いつつも、スーパーで他の人たちがお菓子とか清涼飲料水とか高い牛肉とか、そういった嗜好品のようなものを買っているのを見ると正直わたしはイラっとすることがある。でも、彼らはそれを買うために自由を失っているのだと考えるようにしている。そう、必要ではないものを買うことは自由を失うことなのだ。そして、必要ではない無駄な食べ物、飲み物をしこたま買い込んで、無駄な脂肪を体にため込んで、どんどん無駄なものによってがんじがらめになっていく。しまいには病気にもなってしまうかもしれないし、先に待っているのは明るい未来ではない。
 でも、わたしがヨガを習いに行くことを無駄な出費だと思っていないように、そんなわたしから見たら無駄な物を買っているようにしか見えない彼らのお菓子とかお酒なんかも彼らにとっては必要なものなのかもしれない。それはともかくとして、わたしを含めた働いていない障害者には自由な時間がある。それは考えてみれば本当に尊くてどんな金銀財宝よりも価値があるものだとわたしは思う。1日24時間365日を100年。100年生きるかどうかは分からないものの、各自、それぞれの人に与えられている1日、24時間はもう過ぎてしまったら買い戻すことは出来ない。そして、その24時間はどんなお金持ちにもどんな貧乏人にも平等に与えられている。この時間が本当に尊いんだ。それをわたしの場合、小さな庭にあるプランターで育てている野菜の前に行くと実感する。痛感すると言ってもいい。それくらい鮮明に感じる。ダイコン、ニンジン、キャベツ。彼らの前に座ってゆっくりと時間を過ごしていると、何だか心が洗われてきて、この時間ってすごくぜいたくだなぁって思ったりもする。お金はないし、仕事もしていないし、何かで成功したわけでもないし、結婚もしていなければ、マイカーだってなくて、車の免許さえ持っていない有り様だし、かわいい子どもなんているわけもない。
 でも、わたしにはある。そう、時間が。そして、わたしの場合、母と一緒に暮らせていて、そのことについての味わい深い日常がある。何気ない日常を振り返ってみると、それらはどんな高級ホテルに泊まることよりも、どんな豪華な食事をすることよりも、どんなにすばらしいリゾート地に行くことよりも優っている。さらには、どんなに名声を得ることよりも、社会的に成功することなんかよりも断然価値がある尊いもの(だとわたしは思っている)。でもね、人はついつい本能なのかより良いリッチなものを求めてしまうんだよなぁ。そして、成功を求めてしまうんだよなぁ。まぁ、生存本能としてはどこまでも快適さや心地良さを求めるものだとは思う。でも、この、今与えられているもの、今持っているものだって満更捨てたものではない。これらの日常だって、今自分が持っているものだって見つめ直してみればキラキラと輝いている。となれば、いかにこのありふれた感動さえしない、感動することを忘れてしまったたものに胸をときめかせることができるか。このこと次第なんじゃないかなぁって思う。
 ズボラで何をやっても結構続かない感じのわたしが今ようやく10日ほど続けることができていることがある。それはその日にあった良かったことを3つノートに書き出すということ。これがね、効くの。すごい効いてきた感じがする。要するに、何気ない日常に感謝できることを探す習慣を付けるということなんだ。でね、これやってると5つとか10個とかいうのはきついけれど、3つっていうと案外すぐに浮かぶものなんだ。むしろ、3つに絞るのに結構苦労しているくらい。今日も無事に朝のヨガに行ってこれたこと。お料理が美味しかったこと。無事に一日を終えることができたこと。母と楽しく話ができたこと、などなど案外見つかるものなのです。どうせ同じ景色を見たり、同じ体験をするのなら、不満たらたらの人よりも、それに満足できる人の方がいいでしょ? 絶対その方が人生が楽しいと思うんだ。まぁ、ヨガ的にはちょっとそれはどうかなというところではあるものの、何もすべてヨガ的でなければならないということもないからね(ヨガは幸せ絶頂でも不満たらたらや不幸せでもなく心の止滅を目指していくのです)。
 うむ、結構書きましたので今日はこれくらいで。金はない。でも、時間はある。感謝できる人生を送っていけたらと思う次第。それではまた。ごきげんよう。

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