精神科の外来へ行ってきました

いろいろエッセイ
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 さあ、何を書こうか。ってなわけでおよそ10日ぶりのブログである。何を書こうか、書くことがあまりにも多すぎて、ではなくあまりにも平凡な日々を過ごしていたので、特にこれと言って書くことはないのだ。
 そうだ。今日、久しぶりに精神科の外来へ行ってきたので、そのことでも書くことにしようか。
 わたしのブログを読み始めて間もない人は、「え? 星さんが精神科に何の用?」と思われたかもしれない。だから、あらためて言います。わたしは精神疾患なんです。(あらためて告白するというまでもないが)そういうわけだから、治療のために精神科の外来へと通院しているのだ。わかってもらえただろうか。以上、説明終わりっ。
 わたしがこのブログにおいて全面的に自らが精神疾患であることを出さないのは、星が精神疾患である前に一人の人間だっていうことを示したかったから、というのが理由だったりする。そうなのだ。星はたしかに精神疾患だけれども、その前に一人の人間なのである。ただ、人間ではあるのだけれど、わたしの中では自分がキリスト教徒であるというその自己意識がとても強いので、「クリスチャン星大地」と銘打っている。
 さて、本題の今日の精神科へ行った話をすることにしよう。
 わたしが精神科の外来へ行っていつも思うこと。それはわたしが元気な方だということである。待合室で診察まで待っていると、次々に患者の皆様がやってくる。しかも、暗い面持ちで。精神科なのだからメンタルが不調な人がやってくる。それはわかる。わかっている。しかし、それにしても暗いのである。みんながニコニコしている精神科というのもまたそれはそれで別の意味でこわいのだが、あまりにも空気がどんよりと沈み込んでいるのである。重い。重い空気が流れている。待合室にいると星のポジティブパワーが根こそぎ持っていかれる感覚に襲われる。エネルギーを吸い取られるのである。ブラックホールに飲み込まれていくような、そんな感じ。
 精神科。楽しい場所じゃないよ。みんな抱えきれないほどの重荷を抱えているのが本当、よくわかる。つぶされそうになりながらも、必死で持ちこたえてやっとの思いで外来までたどり着いた。そんな空気感なのだ。こころを病むというのはなかなかシビアなのである。
 そのどんよりとした空気にエネルギーを吸い取られた星であった。そして、さらに追い打ちがかかる。医療スタッフがわたしを完全に患者扱いしてくるのである。(星も患者だろ? あんたおかしなこと言うねぇ。)これにも何か萎縮してしまうというか、あぁ、わたしって病人だったんだ~とまたもやエネルギーを奪われるのである。まるで何もできない患者である。まぁ、それが患者に接する基本なんだろうけれど。注文ばかりなのだが、もう少し一人の人間として、つまり大人として扱ってほしいのだ。
 吃音のセルフヘルプグループの集会に参加したときにも同じようなことを思った。吃音の当事者が集っているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、自分たちを吃音者として自己規定しすぎているのである。俺たち吃音でダメだからみたいなネガティブオーラを参加者たちが発していたのである。わたしは思った。吃音だってその人の属性の一つでしかないだろ。その前に一人の人間だろ、と。
 精神科の場合にも患者という役割に包まれてしまうと、何かを主体的にやろうという気持ちが摘み取られてしまうのである。自分はダメだという自己規定に流れがちなのだ。だからこそ、わたしは患者文化に染まりたくない。わたしも一応患者ではある。でも、それに縛り付けられたくない。自分の可能性を自分で諦めて摘み取ってしまうようなことはしたくない。「どうせ俺は精神病患者だからダメなんだ」と思いたくない。
 わたしがこう思えるのは、おそらくわたしが回復してきたからだろう。わたしも昔、本当につらかったころにはこんなこと考える気力さえなかったし、起きなかった。だから、ありがたい。本当にありがたい。あの頃のわたしは精神科の外来へ行っても何も感じなかった。違和感が何もなかったのだ。むしろ患者扱いされることを嬉しく思っていた。今とは全然違うことがお分かりだろう。だから、だから神に感謝したいと思う。

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