プロセスを大事に

 昨日は日曜日で教会だった。毎週、毎週、礼拝に集うことによって自分がキリスト教徒であることを実感する日々。特に昨日はうちの教会では聖餐式があり、ウエハースとぶどうジュースをいただいた。あぁ、クリスチャン。それを強く感じるのだった。
 で、礼拝が終わって男子トイレへ行ったら、教会員のTさんがいて、お互い小用を足しながら男の会話(?)をした。Tさんは現在80歳。以前、「私は100まで生きたいと思っているんです」と言っていたTさんだったから、わたしは彼に「100まで生きるっていう計画は順調ですか?」とたずねた。するとTさんは「まぁ、今のところは。でも、歳を重ねると体のあちこちが弱ってくるからなかなか思うようにはいかないけどね」と弱気ではないものの、少しばかり憂いを帯びたトーンで返してくる。それにわたしが「健康寿命をのばすことができるように、ぼちぼちできることをやっていくってことでしょうか」とまた返して、「わたしは100までって言うとまだ60年ありますよ。まだまだ先が長いです」と笑って、Tさんもそれにつられて笑い声を出して、密室での男の会話は終わったのだった。
 60年。あと60年というのは長いのだろうか。それとも短いのだろうか。40年あまりの人生を送ってきて、あっという間だったことを思うと、意外と100歳になるのもあっという間なんじゃないか。
 この与えられた数十年で何をやるか。何をしていきたいか。目先のことばかり考えてしまいがちだけれど、長期的な視点も忘れずに持ちたいものだなとわたしは思う。
 やりたいこと。やっていきたいこと。今一番長い視点でやりたいことってやっぱりヘブライ語かな。今、テキストとしてやっている日本ヘブライ文化協会の『ヘブライ語入門』がいつ終わるのか、まったく目途が立たないけれど、5年から10年以内にはこの内容を全部マスターできたらなって思っている。そのために毎日コツコツと牛歩の歩みでやっているわけです。
 それから、ヨガも深めていきたい。自分自身にとってのヨガを追求していって、しなやかな美しさのある体と心を目指していきたい。
 あと他にもやりたいことがないわけではないけれど、まぁ、こんなところかな。今、他にも関心があることと言ったら、防衛、宇宙、アティテューディナル・ヒーリング、囲碁、アーユルヴェーダといったところで、ぼちぼち深めていけたらと思っている。
 放送大学は? いやはや、ちむどんどんしないので(もうこの朝ドラ終わっちゃいましたね)どうしようかなと考えているところ。それにしても胸がときめかないんだ。こんなに自分が興味や関心があることにはときめいているのにね。
 うむ。何だかこの文章、ぐだぐだしてまいりましたな。ほとんど中身のない文章となりつつあることを感じ始めているところであります。いわば、自由な近況報告といった趣でありましょうか。書いているわたし自身も退屈してきた。おそらくこの文章を読まれているあなたも退屈してきたことだろう。
 前にも書いたことだけれど、こうした目標を達成できるか、成し遂げられるかということだけが大切なのではない。もちろん、それらが達成できるのであればそれに越したことはない。けれど、わたしはこの結果だけではなくて、過程、つまりはプロセスを味わっていけたらと思っているところなんだ。ヘブライ語だったらヘブライ語ができるようになりましたっていう結果だけが尊く価値があるのではなくて、そこまでのプロセスにこそ意味があるとわたしは思いたいのだ。
 これは植物を育てることにも似ていて、キャベツだったら種とか苗の段階があって、それが少しずつ少しずつ成長して大きくなっていく。結果だけを考えるのであれば、スーパーで完成したキャベツを買えば済むことだし、それで完結してしまう。でも、そうではなくて、この少しずつキャベツが大きくなって成長していく過程を味わえたらなと思うのだ。だから、ヘブライ語にしてもその他いろいろな勉強にしても結果だけを見るのではなくてそれに取り組んでいること自体の、つまりは過程でありプロセスを味わっていけたらなということなのだ。
 この過程、プロセスを大切にするという考えは自分で思いついたことではなくて、精神保健福祉士のWさんから教わった考えなのだ。Wさんの素晴らしいところ。それは自分にしろ相手にしろ、その出した結果だけを見て判断するのではなくて、そこまでに至る過程をも見る、というところなのだ。だから、テストで言うならば何点取ったかということだけではなくて、そのテストまでの過程を大切にするというか、それまでの取り組みを尊重するのだ。だから、Wさんは二人の人がいたら、それぞれ今回のテストに至るまでの道のりを大切にするだろうと思う。だから、手を抜いてほとんどさぼってやる気の片鱗すらなかったのに100点を取った子がいたとしたら、あまりほめないことだろう。それよりも、たとえ40点だったり50点だったりしても、その点数を取るために頑張って一生懸命取り組んだ子のほうをWさんはほめるだろうし、「よくやったね」と言ってくれそうな気がする。頑張らないで取った100点と頑張って取った40点。どちらが尊いのか? わたしは頑張って取ったほうだと思う。たとえ、結果が出せていなかったとしても頑張ったその子の頑張りは素晴らしいしかけがえのないものだと思うのだ。
 星さんて何だか綺麗事を言うようなのでついていけません。そういう批判をされるのなら、それも結構。でも、そういう結果だけを見る人というのは逆に自分自身についても結果によって冷たく裁かれる運命にあるのだ。結果が出せているうちはいい。けれど、結果が出せなくなった時、過程やらプロセスなどは無視されて「結果が出せなかったからあなた失格ね」と一言言われて切り捨てられて終わりなのだ。
 過程、プロセスを大事にする。大切にする。何だかWさんの素晴らしいお人柄がにじみ出てくる話ではありませんか。
 もともと能力の高い人は少しの努力で華々しい結果が出せて、まわりからほめられてちやほやされる。でもね、結果が出せないいわゆる「どんくさい人」もいるわけですよ。彼らは頑張っているんだ。でも、結果が出ない、出せない。いいじゃないの。あなたはあなたなりに頑張っているんだから。たしかに勉強方法が良くないとか、間違っているから結果が出せないなどいろいろあるとは思う。でも、あなたの頑張りは神様が、神様という表現に抵抗を感じるならお天道さまが見ている。もしかしたらそれは報われないかもしれない。一生、日の目を見られなくて埋もれたままなのかもしれない。でも、いいじゃないの。あなたの頑張りはあなた自身が一番分かっているのだからそれを誇っていいと思う。「俺は(私は)結果が出せていないけれど頑張ってるんだぞ~」ってうなっていいと思う。雄叫びをあげていいと思う。かくいうわたしのこのブログだってほぼ収益ゼロの底辺ブロガーだ。報われてなんかいない。でも、こうして今も飽きず倦まず書き続けている。
 過程を、プロセスを大事に、大事にしていく。そんな感じで残りの60年を結果だけに固執することなくやっていけたらと思うわたしなのであった。

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