2024年1月1日深夜、星かく語りき

いろいろエッセイ
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 どうも~、星です。いやぁ、新年になっちゃいましたね。2024年になっちゃいましたね。もういくつ寝るとお正月ぅってな感じで待ち焦がれていたお正月ももう既に今日がその日なわけです。いやはや、光陰矢の如しってかぁ。何かお軽いテンションで始まりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか? 昨日紅白を最後まで見ていたら起きるのが遅くなってしまって、という人もいれば、いやいや昨日は初詣に行くために早めに寝たのよ、という人もいるかと思う。ともかく、というか只今の時刻は午前2時22分。おっ、ちょうどニャンニャンな時間じゃないですか。めでたい。これはめでたいぞ。なんて無駄なおしゃべりが始まってしまいそうな、またしてもぐだぐだ、ぐだぐだとこれは文化だからなどと訳知り顔で、そしてドヤ顔で語るわたしがいる、と思っていただければ十分です。ドヤっ、なんてね。ドヤ顔なだけにね。
 さて、「星かく語りき」なんて偉そうなタイトルをつけてしまいましたが、何を語りましょう? 「どうせ星の語ることなんてヨガのことか、自分の身の回りの狭い小さな出来事だけだろ」とお思いの方、ご名答であります。というか、バリへ行ってサーフィンしてきてさ、とかハワイへ行ってきたとか、インドから帰ってきたばっかなの、とか、そんな高級なアクティビティができるだけの金があるわけもないわたしはせいぜい身の回りのチンケな話をするのが精一杯というか、それくらいのことしかできない。ましてや、海外どころか基本的に国内でさえも旅行があんまり好きな方ではなくて、ただお家にいていろいろとささやかに慎ましく生きている。それがわたくしの基本的な毎日であり、生活なのです(最近ではそれにアシュタンガヨガのマイソールクラスが加わったけれど)。
 うーん、ここでわたしの新年の抱負を長々と滔々と語ってもいいんだけれど、それって皆さん興味あります? というか、わたし自身誰か他の人の新年の抱負とか興味がありません。ございません。だから、相当な星さんフリークやファンでもない限り、そんな今年はあれをしたい、これをやりたいなんていうのはきっと語ってもスルーされると思うのです。それよりは何かためになることって言うのも何だけれど、役に立つことだったり有益なことを語った方がいい。でも、それがわたしにできると思います? となれば、結局は自分語りをするしかなくて、この白い白紙をただ無駄なおしゃべりで埋める、というだけになってしまうわけですが、いやはや、読者の皆様はこんな書かんでもいいようなことはどうでもいいのでありましょう。じゃあ、何を語るか。語れるか。
 時間の使い方。時間を使うことについて思うところを書きたいと思う。わたしたちはこの人生において時間というものを生きていて、とにかく自分の時間というものを消費している。たとえば、今こうしてわたしが文章を書いているわけだけれども、これだって今日だったら2024年1月1日の24時間、1440分という限りある時間のなかから削ってそのために用いているんだ。だから、当たり前のことだけれど、その時間を切り売りしてお金に換えても、あるいは換えなくても、ともかく時間というものは平等なんだ。年収が何億円もある人もそうではなくて数十万円しかない人も、同じように時間が与えられている。今日与えられた24時間という時間。その時間をどのように使うのか。結局はそれに始まってそれに終わる。それだけと言ってもいいくらい、それだけなんだと思う。
 時間の使い方。それは命の削り方でもある。かつおぶしのようにわたしたちは命を削っている。あるいは、砂時計の砂が流れ落ちるかのように、何かに時間を使えばその分、人生の残り時間は減っていき削られていく。
 そう考えていくと、本当に人に優しくするというのは自分のその限られた時間を相手のために用いることだと思う。誰かのために時間を使うことはその人のためだけに自分の命を削ってすり減らすことを意味する。そういうわけだから誰かに優しくしたい場合には、自分の時間を使えばいいし、実際使うことだろう。反対にあまり懇意にしたくない相手には自分の時間を使わなければいい。シビアなようなだけれど、実際自分にとって大事ではない人や物事に対しては人は時間というものを使わない。それは無駄なことであり命の無駄遣いだと分かっているからだ。
 たしか叶姉妹(ゴージャスで金持ちな感じの人たち)の姉だったか妹だったかどちらが言ったのかはちょっと覚えていないけれどこんなことを言った。「金持ちは待たない」と。この言葉はすごく傲慢なようだけれど本質を突いていて、あぁ、結局時は金なりどころか金以上のものなんだなということに気付かされる。どんなにお金を積んでももう手に入れることができないもの。それは過ぎ去ってしまった時間であり、時間をたくさん失うということはどんなことよりも大きな損失なのだ。
 それとは対照的に、医師で長寿を全うして亡くなられた聖路加国際病院の日野原先生は生前こんなことをいろいろな場所で言っていた。それは「自分のために時間を使うのではなくて人のために使いなさい」という言葉だ。彼にとってはそれが天国に入るための条件だと信じていたところがあって、それが少々曲者ではあるのだけれど、本当に優しい人というのは何よりも自分のためではなくて他の人のために時間を使う人のことなのだと分かるし、実際そうなのだと思う。
 最も利己的な人間。それは自分のためだけにしか時間を使わない人。1分1秒たりともすべての時間を自分のためだけに注ぎ込んでつぎ込む人。それとは逆に最も利他的な人間とは何も見返りを求めずに(金銭や名誉や賞賛や相手から感謝されることなど)ただひたすら自分のためではなくて誰かのために時間を使う人のこと。自分の時間をすべて人のために捧げるあり方。そして、それが究極的なところまで到達すると自分の時間どころか命さえも誰かのために捧げるようになる。誰かのために死ぬことは自分の時間をその人のためにすべて捧げ尽くすことを意味する。さらには誰かの時間を奪うことが究極的なところまで行き着くとその人を殺すということになる。誰かを殺して命を奪うことはその人のかけがえのないこれからの全ての時間を奪うことを意味する。
 そういうことを考えていくと、誰かが自分のために時間を使ってくれた時に嬉しいと思うのはそうしたことを本能的に嗅ぎ取っているからなのだと分かる。突き詰めて言うならば、その人がわたしのためにどれだけ自分の命である時間を使って削ってくれているか。そして、これからもどれだけ削ろうとしてくれるのか、ということ。だから言うまでもなく、自分との会話を片手間で切り上げられたりした時に、寂しい気持ちだったり、場合によっては怒りだったりが起こってくるというのは当たり前のことだと思う。もっとわたしのために時間を使ってよ。もっとわたしのために自分の命を削ってよ、ということなのだ。それはもっと言うなら、あなたがわたしのために自分の時間を使って命を削ってくれるのだとしたら、それも何のメリットもないのに(メリットとしてはおもに金銭が絡むことが多い)そうしてくれるのだとしたらそれはわたしがそれだけの価値があって大切にされるだけの値打ちがあるからだということを意味する。
 そんなことを感じていたからだろうか。わたしはよく料理を作る。自分が美味しいものを食べたいという気持ちはもちろんのこととして、一緒に暮らしている母にも喜んでもらいたいと思うからだ。あぁ、そうか。そうだったんだ。別にお料理なんか作らなくてもスーパーで出来合いのお総菜なりお弁当を買ってくればそれで終わってしまうし、その方が簡単だ。自分の自由な時間だって削らなくて済む。でも、それは自分の時間をほとんど使わずにできることであって、そういうこともあってか命の削り方がきわめて少ないから母に大きな喜びを与えることができない。
 つまり、自分の時間をどう使うか。自分の命を何のために削っていくのか。用いていくのか。本当にこのことに始まりこのことに終わる。いや、このことがすべてだと言ってしまってもいいかもしれない。時間の使い方。命の削り方。自分の命がかつお節だとしたらその塊である本体(かつおの塊)は限られていて有限だ。それを削っていく。何のために? どうせ命を削っていくのだとしたら価値あるもののために削って使っていきたい。どうでもいいことや別にやらなくてもいいことのために命を削るのはもったいない。つまり、それこそがシンプルライフなんだ。いろいろなことに注意が散漫になっていなくて、限られた少ないものに対して集中しているあり方。うむ、抱負は語るつもりはないと最初に言ったけれど、何か元日の新年の抱負らしくなってきたぞ。
 自分が価値があると思うもののために自分の命を削って使っていきたい。まさにシンプルなこの新年の抱負を抱きつつやっていきたいと思った2024年1月1日の深夜から明け方(只今午前3時52分)にかけて、星かく語りき、なのでした。
 それでは皆様、良い1年としていきましょう。お互い納得のいく命の削り方をしていけたらいいですね。今日も明日も明後日もかつおぶしを削るかのように命を削っていくのですから。大切なことのために命を使っていきましょう。ではでは、皆様にとって良い1年となりますように。



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