大晦日に思うこと

いろいろエッセイヨガ星のアシュタンガヨガ日記
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「もういくつ寝るとお正月~♪」と歌っていたらもう明日がお正月というわけで、何やら時間が倍速で流れているような気がして仕方がない。
 1年というのは早いものよ、と思う。そう言えば、去年の今頃は祖父が亡くなっててんてこ舞いだったんだっけ。去年の12月29日に亡くなって、お葬式が1月3日だったからもうお正月なんてやってる場合じゃなかった。それで今年に入って、葬儀が終わったら終わったですぐにわたしがコロナに感染してしまい、同居している母も陽性となり感染。あぁ、そんなわけで今年の年の始めというのはバタバタし過ぎていて、記憶が……。
 で、今年1年を振り返ってみるといろいろあったなぁって思う。わたしの生活なんてたかが知れていて平凡でつまらないと思うかもしれないけれど、平凡というものにもアップダウンやいろいろな出来事は起こったりするものなのだから、もしかしたら平凡な毎日なんていうのはそもそもないのかもしれない。バタバタはしていませんけど、それなりにいろいろあった。平凡もある意味、平凡ではなくて楽じゃない。そんなことを思ったりもする。
 いろいろありました今年も今日で終わり。ってなわけで、今年1年に書いた記事のタイトルを見返してみた。何もなかったようでちゃんといろいろあったじゃないですか。
 年の終わりに祖父が亡くなって新年早々に葬儀をやって、放送大学をやめて、菜食を開始してヴィーガンになって、ヨガの先生になるための資格(RYT200)を取るかどうか思い悩んで、で、それをやめて、森の公園へ結構行くようになって、アシュタンガヨガを習うかどうかということでああでもないこうでもないとまた思い悩んで、で、ダメでもともとで無理だと思ったらやめればいいと思って、で、実際やってみたら結構いけて今もこうして続けることができていて、体もムキムキになって心も穏やかに人生が好転してきて、で、今、12月31日、大晦日のわたしがいる。
 人間生きていればいろいろなことがある。何もないと思い込んでしまっている人であっても、何らかの心の浮き沈みはあるのだから、その心の動きも含めればいろいろとある。それは物語というか、一編の小説のようなもので、たとえドラマチックではなくて、鈍臭くて何も面白くないようでも、それはそれでまた味があって趣がある。
 生きていれば何かを思う。心の変化はロボットではないのだから常にある。あぁ、それが生きているってことなんだ。別に東大に合格したとか、年収が2倍になったとか、京都へ熊を食べに出掛けたとか、結婚したとか、何もそんなビッグな出来事だけが価値があるわけではない。「今日食べたバナナが、それも100円のバナナがいつも以上においしく感じられた」というだけでも立派な出来事。また、何かを食べなくても今日は何だかいつもよりも気持ちが明るかったとか、それだけでも大きな大きなこと。何も大きな何かが、事件が起きなくても別にそれでいいんじゃないかって思う。というか、そんな衝撃的な小説とか映画みたいな事件ばっかり起きていたら平穏な暮らしなんてできないから、それくらいの平凡過ぎるくらいがちょうどいい。毎週のように探偵小説か何かのように殺人事件に遭遇しなくてもいい。ちょっと今日は何かこのことに心が動かされた。それだけで立派な出来事。
 大晦日にやる紅白歌合戦に出場できるのは、それはそれは激しい競争を勝ち抜いてきたエリートだけ。歌が日本でもトップクラスにうまい人、その歌の合間に挟まれるお笑い芸人はそれもまた日本でトップの人たち、俳優は美男美女が勢揃いでこのわたしなんかが太刀打ちできるわけがない。でもいい。わたしはわたしなのだから。大リーグの大谷選手のようにスカイツリーを2本建てられるだけのお金を稼げなくても、別にわたしはわたしなのだからそれでいい。と言いつつも、特に大谷選手なんかに「1千万円くらいでいいからこっちに回してくれない?」と言いたくもなる(笑)。
 わたしのやっていることなんて成功している人たちから見れば、何をやってるのかねぇ程度なのかもしれない。有名大学に合格したわけでも、一流企業に入れたわけでもなければ、何か一芸に秀でてその道で成功したわけでもない。でも、わたしはわたし。
 そう思えるようになってきたのは、わたしの場合アシュタンガヨガを始めたことによる影響が大きいのだと思う。アシュタンガヨガのマイソールクラスというのは、最近始めたばかりの初心者も、どんなに何年、いや何十年やっている人も、はたまたどんなにヨガにおいて高い境地に到達している人(先生とか)であっても、同じように同じ場所、つまり同じ空間でただヨガマットを並べて各自のヨガをする。わたしは時々、あまりにも華麗なというか、堂々たるヨガをやっている人が目の前にいたり、隣にいたりすると圧倒されてしまうことがある。見ようとしていなくてもその動きは何だかんだで見てしまうし(本当は自分のヨガに集中するところなのだけれど)、気になるまではいかなくてもそれなりに見てしまう。でも、たとえどんなに自分のヨガがその比べている人よりもたどたどしくて、カッコ悪くて、鈍臭くて冴えなくてもわたしはわたしなんだ。
 このことを現実に持ってきて応用するのなら、わたしが障害年金だけの収入しかなくて年数十万円しかもらえていなくて、別のある人が何億円も稼いでいたとしても比べること自体が意味がないということに気付くことができる。でも、だからと言って、自分を卑下する気持ちが起きないかどうかと言えばそんなことはないけれど、それでも自分を落ち着かせるように気を取り直すことはできる。
 今、わたしがやるべきこと。それはヨガであれば自分のヨガを今ここでやること。だから、同じようにわたしのこの人生においてやるべきことは、今わたしに与えられているこの人生を精一杯、今に集中して生きること。それだけなんだ。わたしがわたしの人生を生きること。そして、何よりも今を生きること。注意が散漫になっている状態からまた自分自身へと意識を戻すこと。
 人と比べても、比べたからといって自分がその人に変身できてその人と同じ状態になれるわけではない。どんなに比べて見入っても、自分自身に視線を戻せば、ただそこには鈍臭くて情けなくて全然なっていない自分がいるだけ。だったらすごい人と比べるのではなくて、そんな暇があったら自分自身のやるべきことにしっかりと集中してやっていった方がいい、ということなのだ。
 みんなアシュタンガヨガで言うなら、練習生でしかない。つまり、みんな人生の練習生なんだ。その練習生の間にはもちろん大きな能力、実力、経験の差というものはある。けれども、何が平等かと言えば、この人生を同じように生きていることではないだろうか。
 以上、たとえてきたけれど、「はぁ?」なのかもしれない。分かりにくかったら申し訳ない。でも、これもわたしにとってはヨガから学んだ収穫なのだ。アシュタンガヨガを始めてみて、そしてやってみて感じたことだ。
 で、紅白は見ません!!(と、突然おぬしは何を言い出す!?) 1年に1回だろうが何だろうが興味がないので見ません。なんてNHKに失礼極まることを口走って、そして、明日も午前3時頃に起きるために早めに就寝する、というわたしなのでした。
 来年はどんな年にしようかしら、なんて思ったりしながらも来年になってから考える!! だからもう寝る!! 以上、自宅から星が大晦日にお送りいたしました。



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