お金にならなくても

 昨日、ふと母と猫のいる部屋へ入ったらラジオが点いていて、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートが流れていた。ヨハン・シュトラウスの曲がたくさん演奏されていて、「何かうまいぞ」と思ったらやっぱり一流のウィーンフィルだった、というわけだったのだ。
 ウィーンフィル(ウィーンフィルハーモニー管弦楽団)。クラシック愛好家なら知らない人はいない世界的にも超有名な一流の管弦楽団。一流の演奏家がそこに所属することを望み、いわば一流のステータスとなるような、そんな世界でも屈指の管弦楽団。
 と、昨日から遡ること一週間あまり。場所は、母の洗礼式があった教会のクリスマス礼拝で、それが終わった後に催された祝会。教会員のKさんのヴァイオリン。奥様がピアノで伴奏をされて、それにKさんのヴァイオリンが軽やかに歌い出す。はずが、どうも不調というか練習不足だったらしく、どうも冴えないところがちらほら。もちろん、決定的に音を外すことなどはしないのだけれど、それでもしばし音がかすれる。けれど、そんなKさんのヴァイオリンを40人あまりの人たちが静かに聞き入っている。何だかこのヴァイリン、あったかい。そして、聴衆のこころもあったかい。みんな、あったかい。演奏が終わる。拍手喝采で「ブラボー」の声さえ上がったかと思う。みんな満足している。と、司会の人が「アンコール、アンコール」とみなにそれを求めるように働きかける。で、アンコール。演奏が終わる。またもや、大きな拍手が響きわたる。
 で、時間をまた元に戻して、今日は1月2日。ウィーンフィルを昨日聴いたわたしがあのKさんのヴァイオリンについて思いを馳せる。想起する。
 わたしは問う。Kさんのヴァイオリンはダメなのかな?って。一流じゃないから価値がなくて、その演奏は無駄なのかな?って。いやいや、そんなことないよ。一流のものはたしかに一流のものとして人々に感動を与える。でも、だからと言って一流でないもの、もっと言うならお金が発生しないものには価値がないって考えるのはどうなんだろうって思うんだ。
 以前、わたしにこのブログ上で「働け」と言い続けたYさんが言った言葉でいまだにひっかかっている言葉がある。それは賃金が発生しないものに価値を認めようとしない彼の頑なな言葉なのだ。わたしはこのブログで発表している文章が広義の意味における仕事だと思っている。それに対してYさんはそれは仕事なんかではないんだと切り返す。まぁ、これは仕事の定義によるものだと思うのだけれど、何だかその言葉を聞いてわたしは寂しかった。お金が発生するものだけが仕事であり、価値があるものなんだってね。
 でもね、わたしは思うんだ。Kさんのヴァイオリンもわたしの文筆も素人に少し毛が生えた程度でそれでお金をもらうことはおそらくできない。でも、でも、その営みというか、その活動にはれっきとした意義があり意味があり価値があるんだ。お金には結びつかないけれど大事なもの、素晴らしいものってあるよね。こう書くと甘いって言われそうだけれど、何もやることすべてにおいて賃金を得るプロになる必要はないんだ。やることすべてにおいて三流であってもいいとわたしは思う。でなかったらそんな世界は息が詰まる。わたしのオムレツだってプロのシェフが作るレベルには到達していなくて、お金をもらえるかどうかと言えば不合格だ。でも、そのオムレツを、わたしが作ったオムレツを、母とわたしは「おいしいね」と声を合わせるかのように喜んで食べている。それでいいんじゃないか。もちろん、プロに近付いて上達していけば、もっと満足度が上がるかもしれないけれど、この営み、それも三流でしかない営みであっても無駄ではない。
 お金をもらえるような活動だけに意味があるのだとしたら、わたしたちの人生なんてほぼ意味がないようなものだろう。それにYさんの言うような狭義の意味での仕事ができなくなることは即刻その人の価値がないことへとつながっていく。お金を稼ぐ。それに意味があり、あとは道楽。つまり、生産性になってしまうのだ。その人間の価値はいかに金を稼ぐか、稼げるか。それこそが指標になってしまうのだ。それって寂しいよな。殺伐としてるよ。
 わたしのブログは今のところ収入がない。入っていない。だから、これは仕事ではない。けれども、現金収入が得られるようになったら、これは立派なお仕事。ってやってることは同じですけどね。違いはそれがお金に直結しているかどうか。
 この論法で行くのなら、まったく売れなくて収入のない作家は仕事をしていなくて、少しでも収入が入ってきたら仕事になる。って不可解じゃないですか。どちらも同じ仕事をしているのにね。
 それにね、こういうことも言えると思うんだけれど、あるところに一人の作家がいたとしましょう。彼は毎日何度も何度も書き直しては自分自身が納得できる作品を目指して妥協しないで取り組みました。が、何も作品が売れません。彼の作品の良さを分かってくれる人が一人もいなくて、まったく収入にならない。1円にもならないのです。
 と、その一方でもう一人の作家はただ売れそうな作品をひたすら書き続けました。自分が書きたいかどうかとか、作品の質とか完成度とかそんなことは無視してただ大衆に受ける、そんな作品を目指しました。で、それがもう大ヒット。彼は大衆を馬鹿にしていて、「おまえらにはこの程度のものしか分からんだろうからこれで十分なんだよ」と言います。けれど、時代を先取りしたり、時代の空気を読むことだけは誰よりも長けていて、それはそれは売れて儲かりました。
 真面目で誠実で妥協を知らない報われないさきの作家は仕事をしていないかと言えば、仕事をしているんじゃないかとわたしは思う。だから仕事というのは賃金が発生したり、換金されるかどうかという基準でははかれないのだ。
 そもそも、わたしがこうして息を吸って、吐いて、吸って吐いて、ご飯を食べて、排泄して、という当たり前の一連の営みだって広義では仕事だと思うんだ。労働だと思うんだ。生きるということは自然に働きかけなければできないことなんだから、これは労働だと思うんだな。狭い意味ではなくて広い意味でね。
 わたしが毎日やっていることはお金にはならない。けれども、それは立派な活動であって、尊い大切な営み。資本主義に浸かりきっているわたしたちは何でもお金に換算してしまう。昔、テレビ東京でやっていた「なんでも鑑定団」なんて、その最たる例。「オープン・ザ・プライス」「○○○○○円」てな具合に。でも、お金に換算できない価値がこの世の中にはたくさんある。そんな価値を大事にしていけたらなって思う。だからこそ、今日もお金にならないブログの記事を書き続けている。きっとこういうのが社会にとっての富なんだろうな。だから、わたしの執筆はお仕事なのです。

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