読書の原点

 何を勉強するか。なかなかこれが難しかったりする。なぜならそれ次第で自分が伸びもすれば潰れもするからだ。要するに、自分の頭の中身についてはもう自分にしっかりと責任があるということで、何を学び、何を学ばないかというのは死活問題と言ってもいいくらい重要なことなのだと思っている。
 独学というのは楽しい。けれど、その反面、自由すぎて果たして今のままやっていていいのかと不安になる時がある。一応、本を読んではいるのだから、先生はいないけれど強いて言うなら、その本の著者が先生だ。その先生から吸収できることはしっかりと吸収させてもらいながら、わたし自身を成長させていく。
 そういうわけだから、わたしはテキストは慎重に選ぶ。と言いつつも結構直観だったり、勘で選んでしまっているのだけれど、それでも慎重なことは慎重だ。
 テキストを選び、何を勉強するか決まったとしても、一番難しいのがそれを続けることだ。独学において一番難しいことはやっぱり続けること。自分でモチベーションをしっかりと持ち続けて地道にコツコツとやっていく。それが一番難しい。なぜかと言うと、何かを勉強していても面白そうなテーマは目の前にちょくちょく現れて、今の勉強の邪魔をしてくるし、あれだけやりたいと思って取り組んだ分野であっても熱が冷めてやる気がなくなってしまうことは珍しいことではないからだ。この2つ。この2つがなかなかわたしにとって厄介で、そんなこんなでいつも中途半端な読みかけの本ばかりが積ん読されていく、というよくありがちなパターンに陥るのだ。
 まぁ、それは仕方がないことなのかもしれない。わたしだって変化していて、まさに万物流転なのだから。同じ状態のものって言ったらそれはもう死んでいるお骨とか石のようなものだと思うから、わたしが生きているということをこれらの勉強が続かない理由は物語ってくれているのだ。
 何にせよ、わたしは飽きっぽいほうだと思う。すぐに飽きてしまうのだ。そして、何か一つに腰を据えて取り組むということが苦手で、ふらふら、ふらふらとあっちにふらふら、こっちにふらふらしている。
 というわたしの文章を読まれているあなたも自分のことを飽きっぽくて困ると思われているかもしれない。一人じゃないよ。同じ人がここにもいたよ。って何の励ましにもならないか(苦笑)。
 ここまで書いてきたものの、もう書くことがなくなってきた。手の内のネタもほとんどなくて、ここからはないものをいかに絞り出すかという勝負になってきそうだ(ってそんな無理してまで記事書かなくてもいいのに。真面目さんなんだから、星さんたらもう)。
 書くことがなくなってきたから昔話をしようか。桃太郎とか浦島太郎ではなくて、わたしの昔話。昔のお話。
 あれは20代前半ごろだったかと思う。その頃、わたしは今はもう亡くなられている立花隆さんをそれはそれは尊敬していた。が、わたし自身、激しい劣等感と渇望に追いまくられていたのだ。「このままではダメだ。全然ダメだ。こんなわたしなんて箸にも棒にもかからないダメ人間なんだ。もっと本を読まねば。何を置いても本を読まねば」といつも焦っていた。気持ちに余裕なんてなくて、ただただ焦燥感に包まれていたんだ。
 それからだいたい20年くらい経った今のわたしだからこそ思えるんだろうけれど、別にそんなに焦る必要なんてそもそもなかったんだなという境地に到達した。どうしてかと言うと、立花さんも言っていたんだけれど、世の中には会社に行って仕事をして、あとはテレビでお笑い番組を見てゲラゲラ笑ってビールを飲んで、何にも向上するための読書とか勉強を何にもしない種類の人だっているのだ。その数が何万人いるのか。いや、もっといて何百万人いるのか、具体的な数字は分からないけれど、もうこうなってくると最後はその人がどんな人生を送りたいのかっていう話になってくるんだ。
 上を見て一流の学者とか独学者とか読書家などと自分を比べて、自分は全然足りないと思うのも一つの考え。でも、何もやっていない人だっているのだから、彼らと比べたら自分の読書量が足りないように思えても、しっかりとやれているのだ。
 というか、たとえわたしが一流の知識人、インテリになれなかったとしてもそれはそれでいいと思うのだ。一流でなかったら存在意義がないなんてことはないし、三流だろうが五流だろうが、わたしが、このわたしが本を読み、向上し、豊かな人間になっていく。そのことに尊い尊い意義がある。だから、わたしの学びはプロになるための学びというよりは、生涯学習に近い。おそらく今から何かの専門家になるべく研鑽していくのはものすごく骨が折れることだろうし、並大抵のことではないだろう。努力に努力を重ねなければできないことだし、そこまでやってもプロになれるかどうかというのは定かではないのだ。時間も、労力も、お金も必要。でも、プロになるためではなくて、好きでやる学びにはそうしたものが完璧に揃っている必要はない。ぼちぼちできる範囲でやっていけばいいのだ。
 少なくともわたしには本を読むという営みがある。しっかりとある。だから、人生に退屈することはおそらくない。それだけでもありがたい恵みではないかと思う。わたしが精神科の病院に入院していた時、同室のおじさんが「暇で暇でしょうがない」と悲しげにこぼしていた。「本は読まないんですか?」と聞くわたしにそのおじさんはただ一言「本は読まないんだよ」。本を読むか読まないか。たったこれだけのことで、豊かなものをくみ取るか、それとも放って投げ捨てるかの違いが生まれる。どちらが豊かな人生か、などとわたしはジャッジしたいわけではない。けれど、わたしには、そのおじさんがとてももったいないことをしているように思えてならなかったのだ。
 読書、勉強。なんでやるの? やると豊かになるだろうから。やっていると楽しいから。面白いから。充実してくるから。
 また勉強に追いまくられて余裕がなくなってきたら、この原点に立ち返りたいと思う。やるもやらないも、それはわたしの自由。でもその自由が与えられた時に、わたしはやる方を選んだ。そして、それを続けて今にまでつながってきている。
 20歳で読書を始めてもう20年になろうかとしている(読書歴20年なわけか)。これからも読書、続けていきたいな。大変になってきたら、このこと(読書をする原点。根っこの部分)を思い出して毎日、コツコツと取り組んでいきたい。ぼちぼちとね。

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