大事な本質

 さて、何を書こうか。そうだな、昨日ネット動画を見て調子が悪くなった話にしようか。うむ、それとも、って特に書きたいこととかがこれ!ってあるわけでもない。
 わたしは何のために書くのだろう、とまたもや迷い始めている。だいたい、自分のことを分かってほしいとか、そういう気持ちはなくなってきていて、別にわたしのことを不特定多数の顔の見えない人たちに分かってもらわなければとも思わない。じゃあ、何で書くのさ? このブログに記事を書いたところで、文章は上手になっても収益は何も入ってこない。いわばただ働き、ボランティアみたいなものでわたしが得られるメリットなんてたかが知れている。
 いや、書きたいから書くんじゃないの? そんな高尚で崇高な理由なんてどうでもよくて、とりあえず何を置いても書きたいから書くんじゃないの? いやいや、それじゃあ続けられませんよ。
 と何だかんだ文句を言いながらもわたしはこの文章を書いている。自分でもよく分からない。何で書いているのかっていうことがね。皆目見当さえ付かない。暇つぶしなのだろうか。たしかにそれもあるかもしれない。いや、生きた証をやっぱり残したいという本能がうずくんじゃないの? 生きた証ってこうして生きていることそのものが生きた証だと思っているから、何も特別にこれをしたからどうこうとかそういうものでもないと思う。
 わたしが一番最初にブログの文章を書いた時のことを思い出すと、分かってほしかったんだったな。自分の中で燃え上がる分かって分かっての炎がとにかく燃えていて、何よりも分かってほしかった。わたしという存在が今ここにしっかりと生きていて、こんなことを考えていて思っている。それを分かってほしかった。だから、読者のことなんてこれっぽっちも考えていなかったし、考えられなかった。ただ分かってくれ。わたしはこう思う。こう考える。で、レスポンスをくれ、と貪欲に読者に感想を求める。もちろん、今だって感想を求めないと言ったら嘘になるけれど(母には「今日の記事どうだった?」と毎度恒例のイベントか何かのように感想を催促しているくらいだから)、今なんかとは比べものにならないくらいあの頃は感想を反応をそしてできることなら賞賛を求めていた。
 あの頃と今ではもちろん状況も違うし、今のほうがいろいろな経験を積んできているから人間的にも深まってきているのだろう。そんなわたしが到達(?)したのが分かってもらえなくてもいいといういわば投げやりでもある思想である。別にみんなに自分のことをラッパを大きな音で吹き鳴らすかのように言い広めなくてもいいんじゃないか。そして、幸せアピールに、自分がやって良かったものやこと(つまりオススメ)などを紹介しなくてもいいんじゃないか。
 だから、わたしが興味関心のあるテーマについて多くの人たちが共感してくれなくてもいいし、自分と同じように興味を持ってくれなくてもいい。わたしは人々にそれを広めるためにその勉強なり活動をしているわけではなくて、自分がやりたいからやっているに過ぎないのだ。
 何でわたしはこの思想にたどり着いてしまったのか。あんなに人に何かをすすめるのが好きだったじゃないの、星さんは。どうしちゃったわけさ? もちろんこんなことを考えるに至ったのにはそうした体験がある。それはどんな体験かと言うと、わたしはTwitterでヘブライ語の学習報告を毎週日曜にしていたんだ。今週はヘブライ語の勉強が何分できましたとか、その時の状況を簡単に書き添えたり、そんなことをつぶやいていた。そうするとありがたいことに7、8人の人たちがいいねを押してくれる。最初はそれが本当に励みになって嬉しかった。けれど、それが2ヶ月くらい続いた頃だろうか。何だか嫌になってきてしまったのだ。単にわたしが飽きっぽいだけなのかもしれない。が、どうやらそういうことではなくて、何て言うか、ラッパを吹き鳴らすことに疑問を感じ始めてしまったのだ。自分の前で大きな音でラッパを吹き鳴らす。そして、自分はここにいて、こんなことをやっていて、こう思うんだよっていうことをみんなに言い広めるわけだ。
 みんなに「これやってるよ~!!」「これいいよ~!!」「これいいからやりなよ~!!」と大きな声で拡散する。でも、それがわたしには何だか虚しくなってきた。別にみんなを導かなくてもいいじゃないの。自分と似ている人、同じことに関心を持っている人を増やさなくてもいいじゃないの。それよりも、自分がきちんと関心のあるテーマを持ってそれにちゃんと取り組めているかどうか。そして、毎日をていねいに生きることができていて、幸せを、幸福感をこんこんとわき上がらせることができているかどうか。
 わたしのこの方向性、突き詰めていくとブログをやる必要なんてなくなってくる。自分が分かっていればいい。自分が了解していればいいということであれば、あえて自分の文章を発表する必要もないからだ。たしかにそう考えるなら、そうなっていきそうだ。でも、せっかくこうした場所を用意して発信できるようになったのだからと踏ん切りをつけられないわたしは矛盾を承知で今日もこうして記事を書いている。
 分かってもらえなくてもいいと思うということは、承認の自給自足に近付いてきていることなのかもしれない。自分で自分の承認欲求を満たすことができるようになってきているのではないかと思うのだけれど違うだろうか。
 反対に分かってもらったところでそれが何になるのだろう、という気もしてきた(ってこんなことを書くと傲慢な奴だと思われそうだけれど)。それだけわたしの現実における人たちがわたしのことを深く分かってくれていて、それによって承認が得られていて満たされているのだろう。だから、あえて不特定多数からの承認を求める必要があまりなくなってきているっていうことなんじゃないか。
 つまり、もうある程度、自分自身と身近な人たちによって承認が得られているから、そんなに見知らぬ誰かからもぎ取らなくてもいいということなのだ。その必要がないというか。
 わたしはすごく幸せな人間なのかもしれない、と今、はたと気が付いた。わかってくれなくていい。もうわかってもらえてるから。それに自分で自分のことを認めることできているから。がむしゃらに承認をかき集めなくても、わたしにはもう十分な承認が与えられている。だから、これで案外満足できているのだ。
 たしかに毎日の生活に心の底から満たされている人は賞賛とか名誉とか社会的地位とか求めないだろうな。もうそういったものがなくても満たされているのだから、あえてそれらを求める必要がない。
 小さなささやかな、けれどしっかりとした幸福。それはいいねの数だけに置き換えてしまえば3、4いいねすらないかもしれない。自分だけ、自分1人がいいと思っているだけで賛同者なんて得られないかもしれない。でも、そのいいねは何よりも価値のある特別ないいねでどんな人のいいねにも優る価値のあるもの。いや、もういいねだ、何だと言うのがつまらなくなってきた。その自分による自分自身への承認、ならびに身の回りの人たちの承認は何ものにも優る。でいいじゃないの。数で表現できない、点数化できないそんな価値がしっかりとあると思うからだ。数字で表せるようなそんなドライなものではなくて、わたしが言いたいのは他の物に置き換え不可能なそんな価値のことなんだ。
 だから、この満足感、幸福感。そして何よりもこの満たされた気持ち。そんな尊いものを大事にしていけたらと思う。
 最初の問いに戻ろう。なぜ書くのか、という難問に。ここまで書いてきて、こう思うんだ。大切なことに気付いたり、自分自身を見つめ直すためじゃないかなって。
 ここまでいい時間だった。こうした時間を持てることの幸せをかみしめつつ、大事な本質を見失わないようにしていきたい。

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