普通教のこの社会で生きるということ

いろいろエッセイ
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 今日、ある集まりに出席してきた。その集まりはわたし以外健常者という感じの顔ぶれでいろいろな世代の人たちがいた。でも、彼らに共通しているのは、まだ65歳になっていなくて働いている、ということだった。
 その集まりにおいて新参者のようなわたしはあまり彼らと親しくはない。だから、何だか終わった後もお客様みたいな扱いをされて、どうも何だかなぁといった感じがした。
 彼らは話をしていた。何について? そりゃあもう決まっている。今やっている仕事のことについての話だ。彼らが盛り上がっているそばでわたしは一人、蚊帳の外みたいなポジション。これは仕方がないのか、どうなのか。障害者で、それもわたしの場合、仕事をしたことさえないのだから、話の輪に入りようにも入れない。だから、除け者にはされていないけれど、取り残され感があった。
 30代から50代の一般的な男女においては、とにかく生活のほとんどが仕事なのであって、仕事のことが何よりも意識を占めている。
 彼らは楽しそうに話をしている。わたしのことなんか構わないで。何だかそうしていたら、自分がダメ出しをされているような気持ちになってきた。自分で言うのも何だけれど、わたしだって頑張ってやっていると思う。たしかに働いて仕事はしてないけれど、それでも毎日懸命に生きている。それを彼らに汲んでほしかった。これってわがままなのかな? もしかしたらわがままなのかもしれない。最近調子が良くなってきたものの、それでも精神障害がある人間にとっては普通に生活して暮らすだけでも一苦労だったりするのだから。
 何かお前の生き方は、やっていることは普通以下だって言い渡されているような、そんな気がしてならない。でも、普通ってそんなに偉いのだろうか? 普通の人たちは障害年金なんてもらうこともなく、すべて自分で働いたお金で生計を立てている。それと比べたらわたしの生き方はずるい生き方だとも言えるのかもしれない。働いてもいないのに食べているし、生活に必要な物だったり、やりくりしてちょっとした物を買ったりもしている。その営み、わたしの生き方すべてを甘えていてなっていない。そう一蹴されたような気がした。
 世間に確実に存在しているもの。みんな言わないけれど、思っていること。それは働いてる人間はまともな人間で、そうではない人間はダメだということ。そして、お金の価値に非常に重きを置いていて、年収が多い人を尊敬して、まるで稼げている人が人格的にも優れているとさえ言いたいかのような、そんな空気がしっかりとある。
 今日の集まりに来ているある人は、わたしが自分が精神疾患があって年金暮らしだということを言ったら、急に見下すような、何だか急に下に見るような態度を取ってきた。さらには、精神疾患のこともろくに知らないのか、この前なんて「ひきこもってたんですよね?」みたいなことも言ってきた。何もひきこもりが悪いとか、そういうことではなくてあまりにもこの社会において啓発がなされていなくて、精神疾患イコールダメ人間のろくでなしでひきこもり、というまさに安易なレッテルを貼るような、そんな人のようだったのだ。
 でも、ふと思った。そういう人たちはそういう人たちで仲良くつるんでくれていればいいのだ、と。わたしはわたしで、価値観が近かったり同じような感じの人と仲良くしてつるむから、どうかお達者で~、と割り切ればいいのだ。そのわたしにやたらと否定的なことを言ってくるその人はいわば、現代社会的な価値観の申し子なのだと思う。学歴があって、立派な仕事をしていて、たくさん稼いでいて、何よりもとにもかくにもお金の力を信奉していて、現実的にドライに生きている。まるでわたしの身内にいる嫌な奴と同じ考え方。わたしは、と言うと、そうした価値観に異議を唱えるタイプで、お金はたしかに大事ではあるけれど、それ以上に大事で大切なものがあって、人の価値というのはどこの学校を出ているかとか、何の仕事をしていてどれだけ稼いでいるかとか、社会的なステータスがどうなのかとかそういうことではないと思っているし、考えてもいる。それよりも人としてどうなのか、ということを重視する。学歴が高くても、年収が多くてもダメな人というのは一定数いる。テストをやらせれば満点近く取れるかもしれないけれど、人間的にどうなんだろうと思ってしまう人。なんて上から目線で申しておりますけれど、とにかく仕事をしていない、というそのことだけで人格を判断されてしまうのだとしたら、もう返す言葉はない。っていうか、仕事をしていない人で素晴らしい人はたくさんいますよ。
 と、ひらめいた。突然でありますが気付いた。社会の価値観というか世論というものが仮にあるのだとしたら、それは多くの人が抱いている考えなのだから、そりゃあ働いている人間がやるべきことをやっていて義務を果たしていて、そうでない人間はダメだというのは至極最もだと思う。というのは、働いている人の方が圧倒的にそうでない人よりも多いから。だから、働いている多数の人たちは、いわば世論をおもに形作るのだし、数が多いというのが考えにしても生き方にしても一般的なものだということになる。数が多い、つまりそれが普通だということなんだ。だから、もし仮にドラえもんのもしもボックスという秘密道具を使ってでもして「もしも働いていない人の方が圧倒的に多かったら」などと世界を変えてみれば、むしろ働いていない人間にとっての正しさや理屈や道理こそが数が多いのだから一般的なものということになり、普通ということになるのだ。
 そう考えていくと、わたしの考えが少数派だというのはもっともで、普通とは異なっているということは何ら卑下すべきことではない。ただ、数が少ないだけなんだから、何も卑下する必要なんてそもそもなかったんだ。
 うむ、それなら1億総生活保護なんていうのもありだなと思う。いや、それでは社会が立ち回らないか。でも、全人口の半分とか4分の1とかそれくらいだったら別に国に養ってもらってもいいんじゃないか。なんてことを言ってしまうのは倫理的にいかがなものか、という気がしないでもない。けれど、今ある仕事のうち、本当に必要なものなんて意外と少ないんじゃないかって思う。みんながあまり新しい物なんかをほしがらずに、別に普通に慎ましく暮らしていければそれでいい、という風になっていけば、多くの職業が淘汰されていくはずだ。そもそも必要のない物を作って売ってそれで生計を立てるというのは非常に効率が悪いと思う。なぜなら、いわばそれはすぐにごみになるような不要品を大量に作ることを意味するから。新しい不要な物を作って、そして売ってうまいことお金にして、それがすぐにごみになって捨てられる。これって無駄だと思う。
 といろいろ考えてみると、何もみんながみんな勤勉に働く必要なんてないな、という風にも思えてこないだろうか。稼げる人だけが大量に効率良く稼いで、あとはその人のおこぼれをその他の多くの人がもらう、でもいいような気がする。そうだよ、そうだよ。その方が絶対効率がいいよ。
 なんて暴論を吐いてしまったけれど、じゃあ、稼げる人から見たらその彼らのおこぼれで養われている人って必要なの、となってしまう。あ、これは言うまでもなく優生思想だな。で、行き着くところは一部のエリートだけがいればいい、みたいになる。お荷物は少なければ少ない方がいいとなってしまうから。わたしに働いていないダメな人というレッテルを貼ってそうした色眼鏡でわたしを見てくるあの人も、意識してはいないだろうけれど、きっとわたしをお荷物的な存在として感じているんだろうなって思う。自分で稼いでない人、あるいは稼げない人。だから、国からの障害年金で養ってもらっているいわばお荷物組。みんなのお荷物。国のお荷物。
 うーん、だんだん雲行きが怪しくなってきたぞ。どこまでも効率化を進めていこうとすると、結局優生思想的なところに行き着いてしまう。優れた人だけ生きていればいい、その人以外は必要なし、ということになってしまうんだ。
 たとえば1年で3億円稼げる人がいたとする。その人が1人養うのに100万円くらいかかるとしたら自分の持ち分なしとするなら単純計算で300人養えることになる。だとしたらその300人は働かないで年100万円の最低限度の生活をしていればいいのか。いや、それよりもその人たちを養うのは無駄なのだからその経費がかからないようにしてしまう方がいい、と考える方が合理的だ。そうか、だから金持ちたちが「働いていない人たちを養うために自分のお金が使われるのはどうかと思う」みたいな不満を言うわけか。
 論が優生思想的なものに絡め取られて難破したところで、とりあえずこれは置いておくとして(って置いておくわけにもいかないけれど)、ともかく優生思想というものは自分自身がずっと勝者の優れた側でいられるのなら文句の付けようがない思想だと思う(あくまでもその人にとってはの話でこの思想自体に問題がないわけではない)。ずっと勝者で、ずっと勝ち組で、ずっと衰え知らずで、ずっと若者でピンピンしている。まさに永遠に朽ちない人ならこの思想でやっていっても何ら困ることはない。でも、人というものは生き物だから、いつ怪我をするか分からないし、いつ病気になるか分からないし、いつ考えられなくなるか、いわば使えない存在になるかということは分からない。使えない、要らない不要な存在(生産性が低いか無い存在)となってしまった時、その優生思想に殉じようとするなら潔く死ななければならない。潔く殺されなければならない。それをするだけの覚悟がある者のみが信奉すべき思想なのだと言えよう。
 人生というものはいつ何が起こるか分からない。昨日まであんなに元気だった人が病気や事故などにあってしまって働けなくなるということは十分ありうる。その働けなくなった時にその人が暮らしていけるようにする手当。それこそが障害年金などの社会保障なのだと思う。それでも働けるのに働こうとしない人についてはどうするかという問題が浮かんでくるわけだけれど、そういう人には、日本国憲法にもある通り、健康で文化的な最低限度の生活を送れる程度のお金(生活保護費)を受け取ってください。それがあなたの人としての権利、生きる権利なのだから、となるわけだ。
 話を最初の方に戻すと、国としては1億総生活保護なんてことになってもらっては困るので、ありとあらゆる手段を使ってその芽を摘もうとする。義務教育で学校の先生が「君たちは働きたくなかったら生活保護で暮らせばいい」みたいなことを言わないのも、あまり生活保護について授業で取り上げようとしなかったのも、そういうことが理由なのだろう。そして、生活保護だったり障害者というものにネガティブなイメージを刷り込もうとしているのをわたしは今までそれとなくではあるけれど感じてきた。生活保護、障害者はそれぞれ不幸でかわいそうな人たち。そんなレッテルをみんなで貼り付けるように誘導してきたようにも思う。だから、そのお可愛そうな人たちが偉そうな態度を取ろうものなら一気に手の平を返したかのようにみんなから冷たい態度を取られる。お可愛そうな人が何を偉そうに、となってしまうわけだ。だから、生活保護や障害年金をもらっている人たちはお金をもらっている手前もあり、あまり表立って、額が少なすぎるだの何だのとは言わずに従順であろうとする。そして、声も上げずに細々と暮らしている。
 そんなわけで働いているのが普通のこの社会ではわたしは普通ではない(数が少ないという意味において)。だから、肩身が狭い。働いていないというだけで急に態度を変えられたり、見下されたりする。でも、それは仕方がない。彼らはこの社会で普通に生きて、普通に暮らしている、いわば普通の信奉者なのだ。普通教の熱心な信者さんなのだ。そして、同時にお金教だったり、学歴や肩書き教の信者さんでもあるのだ。そんな彼らとわたしの価値観なり信条や信念やらが食い違って噛み合わないのは当然のことなのだ。至極当たり前のこと。だから、わたしは同じような価値観の人とつるんで彼らと楽しくやっていきたい。となるとわたしの未来の彼女さんや友達も働いていない人? それでヴィーガンでキリスト教徒で教会に今は行っていない人でヨガをやっている、なんて人はなかなかお目にかかれないだろうけれど、似たような価値観の人はいると思う。って言うかいるでしょ。絶対いるから。と言うわけで気を落とさず、自分と似ている人を探していきたいと思った次第なのです。一見落着ですかな?



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