すべては最高なんだよ

いろいろエッセイ
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 今朝5時頃、始発の電車に乗って朝のヨガ教室へ行こうと、駅まで歩いていたらふと「すべては最高なのかもしれない」と思った。本当にふっと、何の気なしに思いついたこのフレーズ。
 わたしは今まで世界と自分自身を最高だとはとてもではないけれど思えなかった。広く見渡せばわたしより恵まれている人や優れている人なんかがいるし、わたしよりもお金持ちの家の人や親が東大卒などといった環境が与えられている人もいるからだ。そういう感じで、自分、そして自分の環境、起こるすべての物事をことごとくネガティブにとらえてはいわばダメ出しをしてあら探しをしていた。でも、すべては最高なのかもしれない。いや、「かもしれない」ではなくて「最高なんだ」と思い出した途端、急に世界が輝き出した。輝き始めたんだ。
 それで今朝のヨガ教室、何だかいつもとは感じるものが違っていた。何だかキラキラとまではいかないけれど、充実しているというか、ほのかにあたりが輝いているというか、そんな感じがした。
 すべてが最高。まるで魔法か何かのようなそんなフレーズの効き目を味わいながら、帰りの電車に乗ったわたしは窓から見える山とかありふれた景色に神々しいものさえ感じたのだった。あまりの感動に一瞬泣きそうになったくらい。そして、同じ列車に乗っている他の人たちが急に愛らしく思えてきた。髪の毛を整髪料で固めた今風のお兄さんを見てもいつもだったらあまりいい感じがしないのに、今日はそのいきがっている、格好つけている様子さえもかわいく見えてきた。不思議だ。言葉ひとつでここまで見える景色から受ける印象だったり抱く感情が変わるとは。
 列車から降りると駅のバス乗り場の近くで子どもたちが何やらさわいでいる。どうやら今朝冷え込んだものだから水たまりに氷が張っているらしい。子どもたちはその氷を足を前後に動かしてそれはそれは嬉しそうにはしゃいでいた。それを見たわたしは世界というものは本当はこの子どもたちが見ているようにいいもので、楽しく、面白く、いきいきとしていて、善意に満ちあふれている幸せな、そんな場所ではないかと思った。
 が、わたしたち大人はいつから下を見るようになってしまったのだろう。本当は最高なのにいつからそれを見なくなってしまったのだろう。帰りの電車に乗っている時、止まる駅で電車を待つ人々を眺めていると、みんなえてして表情が暗い。そして、小さなスマホの画面を食い入るようにただただ見つめている。本当は目の前に既に最高でパーフェクトなものがあるのに、素晴らしいものがあるのにそのことには気付いていない。視線に入ってくるのはまだ手に入れていないものばかりでそのことばかりを考えている。実はもう既に幸せは目の前にあるのではないか。この当たり前の日々としか思えないいつもの光景であっても最高なのではないか。
 世界はそんなんじゃないよ。世界というものは暗くて悲惨で冷たくてどこまでも虐げてくる敵意に満ちた場所。だから、もっとこの世界をつぶさに見た方がいい。そんなことをいう人もいるかもしれない。でも、その人にとってはそう見えるように、わたしはわたしで別な風に見てもいいのではないかと思う。世界は明るくて楽しくてあったかくて善意に満ちている。たしかにネガティブなことは存在する。けれども、どんなにネガティブだとしか思えないことであっても、それをネガティブだと認識しているのはその人なんだ。だから、そのネガティブだと普通は思うことであってもとらえ方次第でいくらでも違う意味を引き出せるのではないか。
 すべては最高。最高だと思えないことも含めて最高。何かポジティブすぎてイカれているように思えるかもしれないけれど、どうせ生きるなら同じものを見て、そして変わらないいつもの自分を見て最高だと思っている方が幸せだとわたしは思う。最高だというのが少しばかり受け入れにくいのであれば、すべては美しいでもいい。
 こうして世界を見たらきっと何かが変わる。いわゆる最高バカなだけかもしれないけれど、わたしはこう思っていたい。
 すべては最高だから、わたしも最高。みんな最高でとにかく最高。イカれてます? 最高なこの世界で最高なわたしが最高な環境で最高な毎日を素晴らしく最高に送っていく。いいと思うけどなぁ。



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