わたし教を卒業するということ

いろいろエッセイ
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 <早朝記したメモより>
 何かのために、何かを得るために行為をする。それは結果を求めてしまっている。そうではなくて結果は求めないでその行為自体を神様に捧げる。
 結果を求めて何かをやってしまうとそれが得られなかった時にがっかりしたり、「何で?」となって怒りすらわいてくる。だから結果は求めない。たとえいい結果が出たとしても、反対に悪い結果が出たとしても、それは神様からのギフトなのだからどちらであっても感謝して受け入れる。
 何かを求めることは執着であってそこにはおそらく安らぎはない。手に入れても手に入れても欠乏感はきっとなくならない。
 今のわたしに必要なことは、神様に委ねてこの人生、そして行為を捧げることなのかもしれない。
 わたしが、わたしがではなく、これはわたしのものと言うことでもなく、大いなる存在にわたし自身を明け渡して委ね切ることではないだろうか。神様がわたしの内側にいるのか、それとも外側にいるのかといった神学的な問題にこだわる必要はなく、ただ大いなる存在にわたしを任せて委ねる。ただそれだけのような気がしてきた。
 思えばわたしはわたし教とでも言うべきものに縛られてきた。わたしが、わたしがで、わたし逞しくなってきたよね、わたし頭良くなってきたよね、わたしってカッコいいよね、わたしって性格いい方じゃない?、わたし魅力が出てきたよね、これはわたしのものでもっとっもっとこれをあれを手に入れたい、手に入れて自分のものにしたい、これはわたしのものなんだから、などと言葉で表してきた。それが今、何だか器が小さかった、幼稚だったように感じられてすごく恥ずかしく思い始めている。わたしがわたしが、に、わたしのものという自分のものだという意識。それがとても狭い物の見方だったような気がしている。でもだからと言って、これから鏡で自分の姿を一切見ないようにしようとか自分の物とか財産を放棄しようなどとまでは思わないけれど、我(が)のような自分へのこだわりやとらわれから自由になっていけそうな気がする。
「わたしがわたしが」、「わたしのもの」といった自分にスポットライトが当たっている状態から神様へと捧げていく生き方へのシフト。そんな風になっていけたらいいなと思う。大人になってきたのかもな。かなり、かなり大きな変化。ってわたしがに少しなってしまっているけれど。
 わたし教を卒業できたら一体何をブログで書いていけばいいのだろう? 自分のことではなくて、何か気付いたことや収穫できたことを書いていけばいいのかな? わたしがわたしがではなくて、こんなことに気付けましたという最良の部分を他の人とシェアする。うん、それがいい。



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