迷子になったら入り口に戻る

最近のわたしはグチャグチャしていた。アーユルヴェーダを取り入れながら、ヨガも始めて、いろいろなものや考え方を自分の中に取り入れて吸収しようとしてきた。中には、それがジャイナ教だったり、エコロジー思想だったり、スロー・ライフだったり。ともかく、ごった煮。
いろいろな考え方を知って、自分の立場を相対化して眺めることができるようになること。それも必要なことだ。キリスト教を本当の意味で知るためには、他宗教を知ることも必要ではないか。けれど、そうした探索をするようになってからというもの、どこか一本ピシリと背筋が通らない。わたしの一番の支えであるはずのキリスト教もたくさんある考え方の一つであるかのような、そんな不本意な立ち位置のような、どこかはっきりとしない中途半端な感じになってしまっている。
もしかして、いや、もしかしなくてもわたしは迷子になってしまっているのではないか。自分でいろいろな道を歩くようになって、本道というか、進むべきわたしが拠り所としている一本道が分からなくなってきてしまっている。それは宗教的な話に限らず、何を一番大切にするのか。何を目指して生きていくのか、といった生き方においてもブレることを意味する。誰かに何か言われたら「あぁ、それも一理あるな」とそっちに傾いて、で、また別の誰かに違うことを言われたらあっちに傾く。あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。何だか頼りない。
どうしてわたしがこんな話を始めたかと言うと、今NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の言葉がわたしの心に刺さってきたからなのだ。料理人として研鑽しているヒロインが屋台のおでん屋の立て直しをオーナーから命じられるのだけれど、ヒロインは斬新で奇抜な新しいおでんを作る。最初のうちは目新しさも手伝ってそこそこ客は来ていた。が、一週間も経つと客足は遠のいて閑古鳥。で、ヒロインはいろいろな人の言葉から気付く。迷子になったら入り口に戻ることが必要で、基本に帰った方がいいのだ、と。そして、基本を尊重したおでんを作る。それが大ヒットして屋台は大繁盛、てな話なのである。
わたしの心に刺さってきた言葉。それは「迷子になったら入り口に戻る」「基本に帰る」である。つまり、いろいろやって訳分かんなくなってきたら、とりあえず今自分は迷子なのだから入り口へと戻るのである。基本に帰ってまた出直すのである。
わたしの場合、いろいろなものを取り入れて自分の軸がブレ始めていた。訳分かんなくなるまではなっていないけれど、それでも一本ピシっと通らない。そうだ、そうだな。基本へ帰ってみよう。一番シンプルなところへと帰ってみよう。と言いながらも何もキリスト教ではない異教的なものをすべて捨ててやめるわけではない。それはそれとして、ヨガやアーユルヴェーダなどはわたしをここまで調子良くさせてくれたのだから続ける。しかし、わたしの思想的な部分。それをキリスト教へと立ち返らせるのだ。だから、技術的なものとしてはヨガなどを取り入れつつも、芯の部分はしっかりとキリスト教の信仰を新たにしていけたらと思うのだ。
じゃあ、具体的には何をするか、していくかと言うと、聖書を読んで祈るのだ。この2つ。何て地味なんだろうとも思う。目新しさなどは何もない。とにかく地味な作業。しかし、これがキリスト教の基本ではないかと思う。いろいろなものを取り入れて、思想的にも持ち札を増やしていくのも一つの行き方だけれど、わたしは基本に帰りたいと思うんだな。
今は亡くなった細木数子さんはこんなことを生前言っていた。わたしはさんざん美食をして食べ歩いてきたけれど、最後にたどり着いたのがご飯とお味噌汁なんです、って。何かすごい説得力があるよ。だから、思想遍歴をして渡り歩いてきても、最後にはその人がクリスチャンだったら、聖書を読むことと祈ることにまた戻ってくるんじゃないかなって思うんだ(わたしはそこまで思想遍歴と呼べるほどのものをやってきたわけではないけれど)。
迷子になったら入り口へ戻る。もっともでありながらも、なかなか見過ごしてしまうことだと思うな。これはいろいろなことに言えるね。勉強もスポーツも仕事も芸術活動も料理も、全部基本あってこそだものね。えてして、わたしたちは応用ばかりやりたがるけれど、基本あってこそだって心得ておきたいな。
でも、基本が一番難しい。だからこそ、基本に向き合って真摯に取り組んでいく必要がある。そして、基本が前よりもものになってきたら、きっと応用もうまくできるよ。
朝ドラ、たまにしか見てなかったけれど、真面目に見るようにしてみようかな。神様、気付きを与えてくださりありがとうございます。

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