人生、楽しんでますか?

 やっている。やってはいる。日々の読書に勉強にとやってはいる。けれど、どれもものにならなくて、どれも中途半端で自分で勝手に作り上げた基準によれば、わたしは不合格。箸にも棒にもかからない。
 こんなことを考えながら妙に焦って地団駄踏んでいる人はわたしだけではないだろう。どんなにやっても、やっても(ってそんな一日10時間勉強してるとかそういうわけではないけれど)一向にものにならない諸分野。積上がっていかなくて、興味関心が移り気のごとくひょいひょい変わっていって深まらない。
 何がこの欠如感、欠乏感をもたらしているのだろうか。それは高すぎる比較目標ではないかと思う。すべての原因。それはここにありそうだ。
 考えてみれば、何かの分野でキラキラしている人だって、すべての分野で輝いているわけではない。必ず何かを選んだ代償として、何かを同時に必ず失っている。何かを選択することは同時に何かを手放すことでもある。その時間を使ってやれていた別のことをやらないことでもあるから、それは当然のことだ。でも、何だかそのキラキラしている人を見ていると、その人がすべての分野で優れているかのような、そんな錯覚をよく覚える。そんなことはない。その人はその分野のトップランナーでしかなくて、すべての分野をオールラウンドになんてそもそも無理な話なのだから。
 わたしが誇れるもの。そんなものってあるんだろうか。一つだけある。それは洗礼を受けていること。そのただ一点。それ以外のもろもろの能力とか特技などといったものはおまけでしかないとも思う。
 けれど、それでもこの世を生きていくにあたって賢くありたいと思ってしまう。賢くなって的確に状況分析をして知的に生きていきたいと思ってしまう。それって小賢しいことなのだろうか。いけないことなのだろうか。たしかに世の中を生きていくには知恵が必要だ。ただ、その知恵に特化しすぎて本質を見失うのが多くの人ではないかと思う。現にわたしもその中の一人だったりするからお恥ずかしい話だけれど。
 賢くなりたい。賢くなって尊敬されたい。そして最大級の賛辞をもって皆からちやほやされたい。って動機が不純だよ、星さん。結局、わたしは自分に自信がない。だから、人から評価されようとする。そして、そうして自分の空虚さを埋めて安心しようとする。つまるところ、わたしはそれをひたすら繰り返してきた。そして、これからもそうした営みを繰り返していくのだろう。他者からの承認やら賞賛やらなくとも生きていけるだけの自分にとっての芯のようなもの、ほしいと思うんだけどなぁ。
 とここまで書いてきたけれど、考えがまとまらない。話もあっちへ飛んで、こっちへ飛んでと、ぶらぶら、ぶらぶらしてしまっている。ぶらぶらしちゃいけない? 話は論理的に筋道立ててはっきりと? って誰が決めた? 世間だよ。社会だよ。世間や社会が論理的にあることをわたしに求めるんだ。求めてくるんだ。そして、多くの人々が論理をわたしに求めてくるんだ。
 まぁ、この記事は不調ではないけれど、わたしのまとまらないぐだぐだエッセイを楽しんでいただく、ということで。などとお茶を濁しておりますが、こんなんでいいのか? って誰にとってのいいなわけ? わたし? 読者の誰か? 社会? 世間様? 「?」だらけの文章に少し疲れてきた。
 まとまらない文章。明晰でない論理。そして、一向に何かをものにできない中途半端なわたし。でも、ここではたと気付く。この中途半端さ、この中途半端さがまたいいんじゃないのか、ってね。というか、この中途半端なのがわたしじゃん。どんな学問も修めることができていないわたし。すぐに興味が移ってしまって長続きしないわたし。長時間の活動が疲れやすくてできないわたし。でも、それらが、それらが渾然一体となって「わたし」なんだ。だから、それを否定するってことはわたしをわたしでないものにしようとするってことなんだ。多分、それがこのままではまずいから自分を成長して伸ばしていこう、変えていこうっていうことなんだろうと思うけれど。
 川の流れのように、同じ川というものは存在しない。常に水は入れ替わって、同じように見えるけれど一瞬、一瞬ごとに新しく生まれ変わっている。わたしも川みたいなものだと思う。川のように、諸行無常で常に移り変わっている。わたしはわたしだけれど、毎瞬間ごとに更新され続けている。新しくなり続けている。
 中途半端なわたし。ほとんど何かを成し遂げていないわたし。でもいい。これはこれでまた味がある。中途半端な、垢抜けない、そんな中途半端でまどろっこしい、いい味が出ている。はっきりしない不明瞭ないい色が出ている。もしも、何かを成し遂げたとしても、それだって完璧なものではない。不完全で、未完成であることに変わりはない。ただ一つのことを成し遂げたっていう一点を除いてね。
 そして、この生涯で何かを成し遂げようと、なかろうと平等に人は天に召されていく。何のために頑張ったの? 何のために成し遂げたの? それは自分がそれをやりたいって強く思ったからさ、としか言えないような状況がいずれは訪れる。すべての人が平等に死ぬ。生前の扱われ方は言うまでもなく不平等だけれど、死ぬのは一緒で、いつか必ず死ぬことも一緒。だったらいいんじゃないの。別に何かをやり遂げなくても。成し遂げなくても。
 でもね、それでもわたしはやりたいんだ。成し遂げられなくてもいいからその過程を楽しみたいんだ。つまり、山を登りたいんだ。やりたい。なんでかね? どうせ死ぬのだけれど、そうであっても、いやだからこそ生きている間にやっておきたい。生きている間にしかできないことをできる限りやっておきたい。
 生きている。別にこの人生が何かを成し遂げるためにあるのだとはわたしは思わないし、思えない。でも、何かを成し遂げられなくても、成し遂げようと汗水たらしているのがきっと楽しいんだろうな。その過程こそが素晴らしくて、きっとドラマチックで、感動的なんだろうな。だから、人は労苦する。たとえ、それが何にもならなくても人は労苦して何かを手に入れようとする。もっと言うなら、旧約聖書のコヘレトの言葉にもあるように、般若心経にもあるようにこの世はすべて空なのかもしれない。わたしが必死でやっていることも意味がないただの徒労なのかもしれない。でも、そういうことは言いなさんな。たとえ、この現実が夢だとしても、幻だとしても、蜃気楼だとしても、本人が思い残すことがなければそれでいいじゃないの。幻想だったとしても、もっと言うならこの世界がすべて虚構で嘘だったとしてもいいじゃない。楽しければさ。
 で、何を言いたいわけ? 星さん、何を言いたいわけ? 話があっちへふらふら、こっちへふらふらと飛びすぎだよ。結論? 結論はねぇ、楽しんでやっていこう、かな。ぼ、凡庸すぎる? いやはや、回って回ってまた元の場所に戻るっていうのがお決まりのパターンじゃないですか。360度回転したらまた元の場所でしょ、なんてね。
 人生の最後の日にわたしは何を思うのだろうか。後悔しないように今のわたしに言えることと言ったら「楽しんでいこう」かな。人生、楽しんでますか? わたしはぼちぼち楽しんでますよ。

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