いろいろエッセイ
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 昨日、瞑想の本を読んでいたら、次の言葉にひきつけられた。
「夢の中にとどまるか 夢から覚めるか」。
 この言葉を読んだ瞬間、カルチャーショックを通り越して軽いめまいさえした。その文章によると、このわたしたちが現実だと思っている世界は夢であるらしい。夢。わたしの平和な人生観やら哲学やらが一気に叩き壊れたような感じがした。夢、か。
 実際、この世界は夢なのだろうか。今は覚めていないけれど、やはり夢なのだろうか。それを確かめる方法。とてもではないが思いつかない。この世界から抜け出て脱出する方法なんてそもそもないし、考えつかない。
 わたしが読んだ瞑想の本の文章はわたしにこんなことを語りかけてくる。それはわたしたちが夢の中(この現実だと信じて疑わない世界)で成功しようとしたり、何か業績を残そうとしたり、何かをなしとげようとしている。けれど、この世界自体が夢なんだから、そもそもその営みには意味がないんだ、と。仮に仏教者がみんなこんなことを考えているとしたら、仏教ってかなりラディカルだ。破壊的だ。
 すべては空である。つまり、何も存在していない。実在していない。その教えをとりあえず受け入れるとしても、じゃあどう生きていったらいいんですか、って話になってくる。すべてが夢で、実在していないとしたら、わたしがこの世で生きる意味なんてそもそもないに等しいじゃないか。だから、だから夢から覚めて悟って達観するんだ、とその文章の書き手は言う。
 とは言えども、そうなるとわたしが今、長い長い夢を見ていて、その夢の中で読んだ本の中にこんなことが書いてあって、そして夢の中でそのことを文章に書いて夢の中のブログで発表している、となってしまう。夢の中でこれは夢だと指摘を受ける。そして、その指摘も何もかも夢。
 うむ、どうやったらこの「すべてが夢論」に対抗することができるのかな。言い返すことができるのかな。とても難しい。なぜなら、夢を見ている時には自分が夢を見ているだなんて1ミリも思わないし、これは夢じゃないかとさえ疑わないからだ。そして、夢はそれから覚めてみないとそれが夢だったことが分からない。何だかこの世界が得体が知れないもののように思えてきたぞ。
 この現実は夢か否か。わたしにはもちろん現実感覚はある。たしかに自分が存在しているようには思える。この世界もあるように思える。しかし、このすべてが夢じゃないか、っていう考えはこのすべてを根底から根本から揺さぶるのだ。逆に、この世界のどんなものだっていい。たとえば、リンゴの存在を確固たる実在するものとして証明することがこの世界の中でできるのだろうか。人はリンゴがたしかにここに今こうしてあり、たしかに存在するんだと力説し、今こうして五感で知覚できるのだからあるのだと言う。しかし、それすらもある人に言わせれば、夢の中で証明だなんだと言っているだけだということになるだろう。
 とここまで文章を書いてきたけれど、こうしたことを夢の中の実在していない人々(ブログの読者たち)に文章を通して語りかける。とても無駄なことをしていると言えば、たしかにしている。そして、この現実だと信じて疑わない世界という夢の中の人々に同意してもらったり、意見を言ってもらったりする。本当、これって滑稽な話と言えば滑稽だ。となれば、わたしは無駄な徒労をしているだけなのか。
 いや、そんなことはない。たしかにこの世界は実在していて、世界も人々も自分も実在しているんだ。こう主張したとしよう。けれど、頭をひねって考えれば考えるほど、その根拠が薄弱であることに気付かざるをえない。あるとはどういうことか。あるとは何か。この単純なことさえ覚束ないのだ。ただ単にこの世界があるとわたしを含めた人々があると知覚できていて、それを信じているだけでしかない。わたしが見ている世界が本当にあるかどうかというのは分からないことなのだ。もしかしたらわたしたちの知覚が歪んでいて、本当の世界の姿はこのようなものではないかもしれないし、真相は謎に包まれている(モンシロチョウから見たこの世界とカタツムリから見たこの世界と猫から見たこの世界とそして人から見たこの世界は違う風に映っていることだろう。同じ人においてもまったく同じように世界を認識しているかどうかは定かではない)。
 あるのか、ないのか。夢なのか、夢ではないのか。いかにこうした議論が不毛なことなのかお分かりいただけたかと思う。夢の中で「これは夢ではない」と言ってもそれは無駄な戯言でしかないのだ。やはり、夢かどうかは覚めてみなければ分からない。
 でも、思う。みんなこの夢の中で精一杯自分が生きた痕跡を残そうと必死なのだ。ある人は本を何百冊も出す。そうすることで自分が生きた足跡をこの世界に残したいのだ。けれど、どんなに頑張っても血がにじむような努力をしようとも「これは夢だよ」の一言ですべてぶち壊しなのだ。こんなに頑張ったのに、あんなに頑張ったのに、この世界は束の間の夢でしかなかった。だから、自分がなしとげたことも水泡に帰する。全部、意味がなかった。この「これは夢だよ」を人生を死に物狂いで全力疾走してきた人に言ったら激怒することだろうな。それを言われちゃおしまいだろうな。
 けれど、思う。もしも仮にこの世界がしっかりと実在していて、すべてがあったとしても別の意味でこの世界は夢のようなものじゃないか、と。宇宙誕生から現在、そしてこれから先どこまでも続いていく時間の流れにおいてはこの長いと思える人生も束の間の夢のようなものじゃないか。もしかしたらだけれど、それくらいのスパンでこの人生を考えたらこの世界は、そして自分の生涯は空ではないけれど、ほぼ空のようなものでしかなくて、それがまさに夢のような一瞬にもならない瞬間でしかないってことなのかもなってわたしは思う。この世界は、そして人生は実在する本当にあるものだ。としても、それは瞬きにもならないほどの瞬間のようなものだ。だからこの世界はほぼ空なんだ。
 言うまでもなく、色即是空はこういう意味ではないだろう。けれど、わたしなりに解釈するなら色即ほぼ是空ということになる。まぁ、だいたいゼロと同じようなものだからゼロだということになる。この世界が夢であっても、夢でなくても、どちらにしろ夢みたいなものだということになるだろうか。
 けれど、わたしたちはこの夢の世界を生きていかなければならない。お腹もすくし、ケガをすれば痛いし、病気になれば苦しいこの夢の世界を生きていかなければならないんだ。だったら楽しい夢にしていきたい。そして、楽しい夢を見てそれから覚めて何を思うかは知らないけれど、楽しい夢だったと思えたら幸せだ。続きを見たいと思えるくらいドラマチックな夢を生きていけたらと思う。いつまで続くかは分からないけれど、いい夢を見たいものだな。

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