気になる異性にわたしが相手にされない理由を考えてみたらそれはもっともなことだと分かったという話とわたしの理想について少々

いろいろエッセイ
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 どうもー、星です。みなさん元気にしてますか? わたしは元気ですと言いたいところだったけれど、実は元気ではなかった。あることで悩み傷付いていて、それは恋の悩みだった。気になる人がいたのだけれど、てんでわたしが相手にされないのだ。無視はされていないものの、ほぼスルー。距離を置かれていて本当に恋愛対象どころか友人としても見てもらえていない、とにかくスルーな状態。
 何が悪かったのだろうと振り返ると、理由がないわけではないけれど、一番の理由がネットでググってみたら分かった。それはわたしが働いていないこと。さらには精神障害があり年金をもらっていること。このことを彼女は知っている。あと、多分致命的なのはわたしの表情がいつも暗めなことと天の邪鬼な少し牽制するような物言いをしてしまったことなどだろうと思う。
 そのわたしの無職と精神障害で年金暮らしという情報が彼女にものすごくネガティブな印象を与えてしまっていて、これは距離を置いた方がいいんじゃないかと思わせているのではないかと推測する。
 わたしは20代の前半に精神疾患を発病して未だにまともに普通に働いたことがない。もう40歳になるというのに働いたことがないのだ。
 一般的な普通の女性にとって、男性が仕事をしていない、働いていないというのは致命的であるらしいということをネットの記事で読んだわたしはさらに深堀りするごとく、Yahooの知恵袋も読んでみた。そうしたらそこでは無職の男性をクズやヒモ呼ばわりする回答があふれていて、少なくともそういう無職の男とは関わらない方がいいといったことが言われていた。それを読んで、あぁ無職はこういう風に見られているのだな、と世間様の見方のようなものを感じたのだ。
 だからわたしが気になっている意中の人もそういった見方をおおむね受け入れていることが彼女の今までの言動を見る限り感じられるから、やっぱ無理なんだろうなって思った。彼女に認めてもらうためにはまずは最低でも働かなければならない。どんな仕事でもいいから働いてしっかりやっているところを見せなければならない。なぜなら、彼女も生活のために懸命に働いているからだ。だからなのだろう。わたしが「家でお料理をよくする」みたいな話をしたらそこまで露骨には言わなかったけれど「いい気なもんだ」的なニュアンスを含んだ言葉を返されたし、東京で今は結婚して新築のマイホームと車を持ち仕事をしている弟のことを話せば「兄ちゃん何やってるんだ」みたいなことを言われ、そのもちろん会ったことさえない弟のことを立派だとほめる始末なのだ。
 今彼女とわたしの間でやり取りした会話を思い出してみてもわたしに対しての批判的な内容ばかりだったような気がするし、良くは思われていないと考えた方が妥当だ。
 というわけでわたしには二つの道がある。一つは彼女に恋愛対象として見てもらうために仕事をする。そして、もっと明るく笑顔でにこやかな態度を取るように努めるという道。もう一つはこれからも仕事などしないで、特に自分自身を変えることもなく今まで通りで行くという道。
 たしかに仕事をするというのは人として真っ当な生き方だし、頼りがいのある選ばれる男になるためには必要なことだ。多くの女性が相手の男性に仕事をしていることを求めて、それができていないなら当然のごとく門前払いをするのは自然なこと。要するにメリットがほしいということ。メリットがなく自分に負担を増したり、害を加える男性は願い下げというのは賢明な選択だと言える。自分を守ってくれて頼りがいがあって信頼できる。そんな強くて優しい男を多くの女性は求めているのだ。
 そんな条件とわたしは真っ向から対立している。精神障害、無職、障害年金暮らしの男性なんてどう考えても強いか弱いか、そして優秀な子孫を残す上でどうかという観点から見ればてんで話にもならない。ネガティブワードが揃いも揃ってしまっていてこりゃダメだなという感じさえする。
 でも、わたしは思う。だからこそ、だからこそそんな負のレッテルを貼られがちなわたしであっても、そんなことよりもわたし自身を見て選んでくれる女性がもしかしたらいるのではないか、と。社会一般から見たらわたしはダメかもしれないけれど、それでもそのダメなわたしを選んでくれる奇特な人がいるのではないかという希望が。
 世の中にはいろんな好みがある。男性の女性の好みだってぽっちゃりが好きな人だっているし、熟女や老女が好きな人だっている。美人とか綺麗すぎる人が苦手な人だっているのだから、好みというものは一律でこうだと言えるものではない。ただ、世間一般から美男美女とされていて多くの人が好感を持ち好ましいとされているものはあるけれど、それが全てかと言ってしまえばそういうわけでもない。だから、数は少なくて限られるかもしれないけれど、仕事をしているとかしていないとかそんなことで人を判断しない人もいると思うのだ。それよりはその人の人柄だったり相性なんかを重視してそれに重きを置く人だっているはず。
 何か目が覚めたような気がした。たしかにそのわたしの意中の人はすごく綺麗でいわゆる美人なのだけれど、わたしとはおそらく合わない。わたしが仮に頑張って仕事をするようになって認めてもらえたとしても、それがまた何らかの理由でできなくなったら、また最初に戻ってしまう。わたしがまた働けなくなったら彼女はわたしを見限るのかもしれない。そして、お金を大事にしているようで、弟のことを何も知らないのに一角の人物だと評価するのもどうも気に入らない。もっとわたしはその人が何をしている人かということではなくて、その人自身を見ることに重きを置くべきだと思うほうだ。
 こう言っちゃあ何だけど、仕事をしている人でもくだらない人はいくらでもいると思う。昼は仕事をしてそれで稼いだお金の大半をお酒を買ったり、飲み歩いたり、パチンコなどのギャンブルにほぼ使ってしまう人ってどうなのだろう? 自分で働いて手に入れたお金だからどう使おうが自由かもしれないけれど、それよりは障害年金暮らしであっても真面目に生活している人の方が尊いんじゃないかなぁって思ってしまうのだけれど。
 わたしの理想のパートナーのイメージはわたしに惚れ込んでくれた人であること。そして、価値観が合う人。そのパートナーは1万人もいる必要はなくて1人だけいればいいのだから、そのことにはどこまでもこだわる。もし相手が年収とか社会的なステータスにこだわるのであれば、他を当たってほしいと遠慮なくわたしは言う。わたしよりも年収が高い人はおそらく過半数以上いて(そりゃあそうだろ)、社会的な地位がある人なんていうのも腐るほどいる。条件のいい人を探すということならわたしなんかで妥協する必要は何もない。精神障害もなく健常者で普通に仕事をしていて社会的にも成功している。そんな人を選べばいいだけの話だと思う。でも、わたしのまだ見ぬ理想の相手はわたしに惚れ込んでいる。そして、わたしよりもいい条件の人がいることはもちろん分かっていながらもわたしでなければ、大地さんでなければダメだとまで思ってくれている。まぁ、そこまで思ってくれる人なんてそうそう現れないだろうから絵に描いた餅のごとく結局現れなくて人生が終わるという可能性は高い。でも、パートナーに選ぶのであればそんな人がいい。そして、わたしも相手に対して同じようなことを思っている。もっと美人な人なら他にいくらでもいる。頭のいい人も優しい人もいくらでもいる。でも、この人でなければダメなんだ、と。
 だから要するに、ありのままのわたしを好きになってくれる人がいいいんだ。認めてもらいたいなら仕事をしなさい、もっとにこやかに明るくなりなさい、あれしなさい、これしなさいではなくて、「ありのままのあなたでいいよ」って言ってほしいんだ。自分に好かれるために気に入ってもらうために変わってくれなくていい。ただ「ありのままのあなたでいて」って言ってくれる人。
 な~んて甘いことを言ってるけれどそんなことは無理なのかもしれない。一緒に生活していればこうしてほしいというのは次から次に出てくるのは当たり前のこと。でも、そういった細かいことはありながらも根っこの部分というか、大筋の部分ではありのままのお互いを認め合っている。そんな関係性を持ちたいなぁって思うんだ。
 だから、「わたしは大地さんと一緒にいたい。一緒にこれからの人生を生きていきたい。その先に困難が待っていてもかまわない。どんなに暮らしが貧しくても一緒にやっていきたい」と言ってくれるような女性がいい。そして、わたしも同じ事を思っている。甘いのかもしれない。現実を何にも分かっていないだけなのかもしれない。でも、そんな人がいいなぁ。
 マッチングアプリを開けば、そしていろいろな条件で検索していけば、もっといい条件の人、もっといい条件の人がいるはずだとパートナー探しが終わることはない。もっと美人、カッコイイ人。もっと年収が高い人。もっとすごい資格を持っている人。もっと学歴が高い人。探していけば上には上がいるから終わりがない。でも、あなたでなければダメなんだというあなたであることという条件だけに絞られた時にはもうそれで探すのは終わりになる。もっといい条件の人はいることだろう。もっと容姿のいい人も、もっとお金を持っている人も、学歴も何もかも上の人はいることだろう。でも、もうそんなことはどうでもよくなる瞬間が訪れたとしたらそれ以上の幸福はないと思う。
 わたしは気になっている人から相手にされなかった。それは悲しい経験ではある。でも、社会常識や一般的な物の見方を重視して、年収が高い人や高学歴な人や社会的な地位が高い人を評価する狭い物の見方しかできない彼女はわたしにはふさわしくないように思えてきた。そして、わたしが努力をして、もし仮に恋愛対象として見てもらえるようになったとしても根っこの価値観が違うから、些細なことでうまくいかなくなることは明らかだ。
 それとは対照的に、わたしが精神障害があると言っても、働いていないと言っても、障害年金暮らしだと言っても、「それは本質ではないよ。それよりも大地さんがどういう人であるかの方が大事だよ」と言ってくれるような人の方がわたしはいい。まぁ、世間の人はあからさまに「働いていない人=怠け者=ずるい人=だらしない人」と裁いてくるだろう。でも、裁かない人もきっといる。そして、わたしの丸ごと、ありのままを好きになってくれる人がどこかにいてほしいなぁと思っている。
「そんな理想ばっかり言ってるから結婚できないんだよ」とわたしに言いたい人もいるはず。でも、結婚すればそれでいいのかと言えばそうではないと思う。そして、不幸な結婚というのも案外多い。だったら結婚自体を妥協せずに自分が譲れないところは譲らずに真摯に相手を選んだ方がいいのではないだろうか。
 知恵袋の無職の男性をクズ、ヒモ呼ばわりする言説も結局、資本主義的な生き方に染まっているがゆえなのだとわたしは思う。さらにはそこまで無職を否定するのは自分たちの毎日の仕事に不満があるからなのかもしれない。俺ら、わたしらがこんなに苦しい思いをしながらやりたくもない仕事をしているのに無職って何様というわけだ。みんながやっている生産という一つのゲームに参加しないわけだから気に入らないのだろう。
 などといろいろ書いてきたけれど、結局まとめるなら自分にとってメリットが得られるかどうかなのだと思う。人はメリットを、つまり利益を得たい。いいものを得ていい状態になり満足したい。そのためにいろいろやっているわけだ。そうした観点からしたら、精神障害があって、働いていなくて、しかも障害年金暮らしというのは面倒を自らに呼び込む要素でしかない。端的に見るならメリットはない。でも、一見ネガティブにしか聞こえないこうした要素がその人にあったとしても、それはその人の一部でしかなくて全てではない。そのまるで総括したかのような情報だけでその人を判断できるかと言えばそんなはずはない。「統合失調症→ヤバイ人→危険な人→近寄らない方がいい人」とその人を見ないで判断するのは思考の省エネになるから楽と言えば楽だ。けれど、統合失調症と一口に言ってもみんな違っていて一人ひとり個性があるから、一概にこうだと判断することはできない。それは無職についても同じでいろいろな人がいるのだから、その人をしっかり見て判断した方がいい。反対に健常者でもヤバイ人はいくらでもいるし、仕事をしていても問題のある人は一定数いる。
 さて、その意中のお姉さんは観賞用にとどめるとして、わたしはわたしでやっていけたらと思う次第だ。でもなぁ、理想が高すぎるからなぁ。この調子で行ったらきっと現れないだろうなぁ。そこまでわたしに魅力なんてないし、と少々卑屈になったところでこの記事も終わりにしたいと思う。
 非モテの星さん、どこどこ行く~の。ってなわけで独自の路線を突き進もうかと。いつかは理解者が現れる。そう信じて、腐らず、多くの女性から門前払いされながらもやっていきたい。というか、わたしの方こそ結果的に多くの女性を門前払いしているようなものだけどね(ドヤ顔)。こっちから願い下げだぁ。「大地さん素敵」って言ってくれる人が現れることを期待しつつ。長くなりました。ではでは、またね。

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