人生でやり残したことをやり終えまして

いろいろエッセイ
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 先日、長い間ひたすら夢見て憧れていたことをやった。もう何十年も憧れて恋い焦がれてきたことだ。それをわたしはどうしてもやりたかった。だから、きっと明日死ぬとしたらそのことを後悔するんだろうなと思い続けてきた。そんなわたしにとっての一番やりたかったこと。やらずには死ねなかったこと。
 やり終えて思ったことは意外とあっけなかったということだった。わたしの想像ではもっともっといいものだった。それはあまりにも至福すぎて頭がおかしくなるくらいのインパクトがあるもので、そうなるはずだった。が、そうはならなかった。この予想外の展開にわたしはたじろいだ。けれど、終わってしまった。わたしのやりたかったこと、それもやらずには死ねないほどのことが終わってしまった。と、あぁこれで死ねる。安心して死ねる。そう思った(だからといって自死を遂げようとかそんなことは思っていない)。今までこれをやるまでは死ねないと思っていたことをやり終えてしまうと、急に身軽になる。今まで、「やらねば、やらねば」「やらずに死ねない」と日々思ってきたほどの重荷が一気に両肩からズドーンと深い谷底へと落ちていったのだ。あー、軽い、軽い。軽快、軽快。
 などと長々と書いてきたが、そのやりたかったことって何なのと思われたことだろう。そう、それは女性と性的な関係を持つこと。つまり、童貞からの卒業だったのだ。って恥ずかしい。穴があったら入りたい。身悶えしてしまいます。でも、もうわたしももう40歳なのだから別にそれくらいいいでしょ? 早い人だと中学生くらいからやっているとよく聞くし(そ、それは早すぎだろうけれど)。そんな奥手で性的な関心と欲望はアダルティーなビデオで満たし続けてきたわたしが実際に現実の女性と交わってみたわけであって、これはこれは大きな一大決心であった。
 本当はわたしが死ぬまでにやりたかったこのことは伏せておきたかった。でも、伏せておいたところでタカが知れているし、何か読んでくれた人にとってタメになるかもしれないから、参考にしてもらえるかもしれないからと書くことにしたのだ。
 でもまぁ、これは多くの人が通過することだから殊更言葉にする必要なんてないのかもしれない。言葉にする理由。何でしょうねぇ。自分のアルバム的な、みたいな感じかな。記念として思うところを書き残す。それも感動が薄れてなくなってしまう前に。
 あるお坊さんも赤裸々に語っていたように、自分ですることが当たり前でそれ以外してこなかったからなのか、実際に女性と交わってみて思ったのは想像していたよりも普通だったということだった。ゴムとかお餅がもう少し液体っぽくなっている中に自分が入っていくようなそんな感じで、とても不思議な感じだった。刺激としては自分で好き放題している自慰の方が断然刺激が強くて、実に女性のあそこというのはマイルドな刺激だったのだ。想像していたのはもう死んでしまうくらいの恍惚感にしびれている状態で、そんな現実を知らないがゆえの想像だった。
 そして、わたしがそれをやってみて分かったことが他にもある。それは共同作業だということだ。今までわたしは独りよがりの自慰だけをしてきて、全然相手を思いやるとかそういうことをしてこなかった(当たり前だ。一人でやってたわけだから)。やはり初陣だけあって下手くそも下手くそで、結構相手が痛がった。でも、わたしはその相手を気遣うことがあまりできなくて、結構自分の気持ち良さを求めて突っ走ってしまった。こういう思いやりのない男が一番最低だというのは分かっている。けれど、この共同で営む愛の作業というものに不慣れなわたしはどうもうまくできなかった。
 そして、もう一つ思ったことは、やはり人間は肉なのだなということだった。この肉という聖書的な表現は本当に的確でこれ以上ぴったりな言葉はない。肉。それはタンパク質と脂肪のかたまりで肉のかたまり。たしかに最初のうちは興奮して気持ちよく感じだのだけれど、次第にこれが肉だという思いが頭にもたげだしてきた。女性の胸もお尻も背中も身体はことごとくお肉。そして、その相手と触れ合っていればいるほど、何だかお互いの距離を感じてしまう。お互い裸になって無防備な状態で向き合っているのに、そうなればなるだけこの肉体といういわば境界が邪魔になって一つになれないということに気付かされる。人間はどんなに頑張っても一つにはなれないし、ならない。そんなことを相手を求めながら少し考えたりもした。肉なる者である人。この肉だということに気付いてしまってから興奮のボルテージは沈静化してきてしまった。でも、この期に及んで聖書の言葉を体感するとは。やっぱりクリスチャンなんだろうね、腐っても。
 天井しらずのやる前の期待とやってみてのあっけなさ。もっといいものだと思っていた。もうそれこそ上限なくすさまじいエクスタシーが待っているかと思っていた。わたしが昔々経験した精神科の薬と酒のチャンポンなんかの酩酊感、恍惚感なんて軽く超えてしまうんじゃないかというくらいの快感と快楽がこの大人の営みにあるのではないか。そんな風に思ってきたものの、その幻想はやはり幻想でしかなくて打ち砕かれた。でも、やってみて良かった。やってみてこういうものかと分かっただけでも良かったわけだし、何よりもこれをやらねば死ぬわけにはいかぬとまで思っていたことだったのだ。だから、本願かなったりなのだ。
 でも、その夢をかなえた方法というものがあまり感心できないやり方だったので(もちろん合法的になのでご心配なく)、その感動が薄かったのも仕方がなかったのかもしれないと今では思う。ちゃんと一般的な正規の方法でやっていればもっとこの体験は素晴らしかったことだろうと悔やむ気持ちも少しはあったりする。でも、もうこれで明日死んだらどうしようなどと思うこともなくなった。すがすがしい気持ちでやり終えた、そんな達成感がハンパない。
 と言いたいところだけれど、何だかこの大人の味の真実を知ってしまって、幻想がちゃんと現実に置き換えられてしまったせいなのか、結婚したいとかパートナーを得たいという気持ちがなくなってしまった。何もそこまでして結婚したりパートナーを得て、その人と性生活を送らなくてもいいかなという気持ちになったのだ。でも、本当はもっともっと底なしに気持ちのいいものなのかもしれない。まだわたしが初陣しかしていなくて、男性側のわたしにおいても下手くそなためにわたしは本当の快感をまだ知らずにいるだけなのかもしれない。そんな可能性もある。それなのに見限ってしまっていいのか。もっと気持ちがいいものだよ、というのが真実かもしれないのに。そうは言ってもあのお薬と酒のチャンポン以上に気持ち良くなるかと言えばならないだろうと思う。やはり限界というものがあるからだ。肉と肉が重なっても、触れ合ってもそれ以上のことはおそらく起こらない。起こるとすればお互いの関係性が深まっていって精神的な意味でも深く愛し合っている状態になれた時だろう。安心感、安らぎ、心の充足感。それはインスタントには生み出すことができない。3分間でできるものではなく、じっくりと何時間も何日も煮込んで煮込んで始めて生まれるものなのだ。
 ただ、交わっている時、一瞬だったけれど今を生きている感じがした瞬間があった。自分の性的なアクションに対して目の前の女性が反応している。してくれている。それは本当にかけがえのない経験だった。
 これをやる前とやった後のわたしでは一皮どころか2、30段は階段を一気に駆け上がったような経験の差があると思う。童貞とそれを卒業した大人になった男。これはもう決定的に精神的な意味でも違う。そして、女性の中でしっかりと途中で萎えることなく絶頂に至れたこと。それは何よりも深い満足感を与えてくれた。あぁ、自分は動物なのだ。人間だけれど動物なのだという風にも思う。オスがメスの中でしっかりと果てること。それは何よりもはるか前から人が連綿と人類存続のためにしてきたことであって、最も強烈な本能だ。それをやり終えた時の満足感、達成感には計り知れないものがある。
 って話がエロいんですけど。たしかにエロいのかもしれない。でも、わたしは真面目にこの記事を書いている。ふざけたところは何もない。いや、これは真面目な話だけにふざけることができないのだ。
 でもね、初体験の後ね。もう性的な意味での感度が良くなりすぎてね。普通に街で女性を見てもムラムラして下半身をたくましくしている始末なんだ。これはおそらくわたしの身体がその初陣をしたというデータを得て、女性というものがお預けのものではなくて、もう関わることができると判断したからGoサインを出すようになったということなんだろうと思う。だから、活力が違いますよ、もう。やる前とやった後とでは性的な旺盛さが違う、違う。そして、何か女性が怖くなくなった。今まではどう思われているのかなぁとか嫌われていないかなぁとよく思っていたけれど、何かもうこの経験を境に一皮むけてたくましくなったみたい。つまり、大人の男になったっていうことなんだろう。女性と一体になった経験によって、男は強くなる。余裕が出てくると言ってもいいのかもしれない。さらには男も女も老若男女もみんながみんな肉だという当たり前の真実に気付くことができた。人間は肉なる存在で肉を持ちながら精神的な面も併せ持つ。だから、人は肉だ。どんな人も肉だ。意思のある肉。このことを知ることができたのもやはり大きな事だった。
 一回、女性と交わってみて、もう女性とは1年に2、3回、あるいは数年にぽつぽつ、やるくらいでいいかなという気持ちでいる。というのも、セックスよりもヨガや自然の中でのお散歩とか美味しいお料理を食べることの方がわたしにとっては快感だから。だから、性的な欲求は別に自分で処理していればいいかな、と。何を言うかと思えばという感じがしないこともないけれど、今回体験してみてそう思った。何もそこまでして大層な打ち上げ花火を頻繁に上げなくてもいいよって思ったというわけなんだ。よく世間ではセックスが好きで好きで仕方がなくて三度の飯よりも好きという人がいるようだけれど、わたしにはその感覚が分からない。三度の飯の方がいいなぁ。三度の飯を食べた上でおまけとしてやる分にはいいと思うものの、性的な行動を主体にしなければいられないわけではない。
 でも、何か急に性欲が強くなったのは事実。強くなったというよりは勢いが増したという方が正確か。ともかく今までよりは自分で処理をすることが必要になるでしょう。ま、処理していきますのでご安心を。
 もう思い残すことがない。という感じですごく心が安らいでいる。あとやることと言えば、ヨガを続けていって穏やかな境地とそんな感じの人間を目指していくことくらい。でも、ヨガをやらずには死ねないというわけでもない。別にヨガを極める前にお迎えが来てくれて構わないし、何も問題はない。もう一番心配していた問題を解決したから。解決できたから、思い残すことはない。あとはもう余生的な、ってまだ40ですけど達観しているようなわたしだったりするのです。
 どこかの嫌味なほどの金持ちがこんなことを何かの場で言っていた。「アイドルとやってもこんなもんかって思いましたよ」と。何とも下品な発言だけれど、結局それは肉であることをアイドルであることが超えることができないということを端的に言っているのだと思う。美人である。イケメンである。ナイスプロポーションである。美肌である。たしかにその方が性的に交わった時に興奮するのかもしれない。けれども、それらもやはりどんなに背伸びをして頑張ったところで肉を超えられないということなのだ。ただ、その肉であることは同じでもその肉に付加価値というか価値を加えられるのだとしたら、やはり長年の関係性だったりお互いを思い合う気持ちだったり、つまりは愛し合っている度合いなのだと思う。そうしたらわたしにはまだ分からないし知らないことだけれど、肉と肉が重なるときに深い深い安らぎが待っているのかもしれない。相手を取っ替え引っ替えした時に得るような激しい炎ではなくて、おだやかなとろ火のような、心穏やかな火加減。さらには相手のことを知り尽くしているがゆえの的確な性技。その性技は極まっていて、極められていてどんなセックスの達人にも真似できない。二人の間で長い間、長い間煮込んで煮込んで到達することのできた穏やかで平和な愛の営み。
 こう考えてみるとわたしはまだセックスというものを何も分かっていないし、ほとんどやっていないに等しいだけなのかもしれない。ただ真似事をしたというだけだったということなのかもしれない。だから、見限るのは早いし、まだ楽しさ、深さを何も分かっていない。でも、人はみんな違ってセックスが好きで好きでという人もいれば、別のことをしたり性的なことはほとんど求めない人だっている。わたしはさきにも書いたように他のことをしている方が気持ちいい。セックスしなくても自慰行為でそれを置き換えることができる。だったら何もそれをやることにこだわらなくてもいいんじゃないか。何が何でもセックスしなければならないなんてことはない。
 と書きながらも、その時の相手の喘ぎ声を思い出すとまた興奮してくる。アダルトビデオなんかとは比べ物にならないくらい地味でさえあるその声。でも、それがそれこそがわたしの目の前にいる女性の姿だったのだし、それこそがリアルを生きているということなのだ。作り物ではなくて、現に自分が現実にコミットしている。受け身にビデオの映像を見るのではなくて、ちゃんとセックスという現実に参加することによって今を生きていた。これは貴重な経験だった。そして一番の経験だったようにも思う。それから「さわり方が強すぎるからもっと優しくしてほしい」とも言われた。アダルトビデオのようにさわったら強すぎると言われた次第なのだ。あぁ、アダルトビデオは教科書ではないんだ。あれは作り物なんだということも分かった。しかし、あれを教科書というか手本にして普通のことだと思っている男子がどれだけいることか。ビデオのようにガンガン、ガンガン突くなんてことはもってのほかで、普通にやっているだけなのに痛がられたくらいなのだから、何よりも優しく思いやりを持つということが大切だと分かった。このようにわたしは現実を知った。そして、一つまた大人になった。いや、劇的に大人の階段を上ることができた。
 物事は取り返しがつかない危険極まりないこと(死ぬとか大怪我するとか誰かを巻き込んで悲惨なことになるとか)でなければやってみるに限る。そして、考えることは考えて十分検討した上でまずはやってみる。そのことが何よりも重要だと思った。やらずして想像の中でこねくり回しているだけでは、何も前には進んでいかない。特に今回のわたしの場合は、死ぬ前にやっておかないと後悔することだっただけに、それはやるだけの意味があり価値のあることだった。というわけでして、いつ死んでももう後悔いたしません(長く生きたいことは生きたいけれど思い残すことはないという意味でね)。でも、憧れの国民的人気女優だったHとわたしが一夜を共にできなかったことは残念だった。でも、それは無理でしょ。その思いはわたしがお墓に入るときに持って行って埋めてもらいましょうか。
 というわけで長くなりましたが、今回はこんな感じでした。ではでは、あなたも死ぬ前にやらないと後悔しそうなことはやっておいた方がいいですよ。やっておくと安心して毎日を過ごせるようになりますから。そして、思い残すことなどなく、毎日をスッキリした頭で生きて、未練がましくなくさっぱりと生涯を終えていくことにいたしましょうよ。
 っていうか今回の話、赤裸々すぎ。でも、真面目に書けましたので良かった、良かった。特に童貞男子(しかもわたしのようにこじらせている人)には有意義な記事だったと思う。死はいつ訪れるか分からない。だから後悔しないようにやらずに死ねないことはしっかりと早めにやっておく。ごくごく当たり前のこと。でも、なかなかこれができないんだよなぁ。ただ法を犯したりするのはダメですからね。合法的にしっかりとやっていきましょう。ではでは(2回目)。またね。

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