昨日の記事、かなり赤裸々に書いてしまったけれど大丈夫だっただろうか。SNSとかに批判が続々と寄せられていないだろうか、なんて心配していた。が、大丈夫だった。そんな影響力わたしになかったですから、やっぱり。
昨日アップした記事のアクセス数は1。1か。こうなるとまるで手紙だな、手紙。6000文字超の文章をうだうだ一生懸命書いてその結果がアクセス数1。長い長いお手紙のようだった昨日の記事、まだの人は読んでくださいまし。え? そんな長いのは読む気がしない? もー困ったな、星お兄さんが内容を要約しておきま……、って読んでください。内容を要約させないでください。
そんなこんなで今朝も街にあるヨガの道場へと行き、練習をしてきた次第。とてもすがすがしくて気持ちよかったです。汗をダラダラ流してヨガをやり、それはそれは浄化されました。
その帰り電車に乗っている時に今までとは違うものを感じた。それは自分自身の研ぎ澄まされたまるでカミソリのような空気で、何だかいつもと違った。童貞でなくなってから今日で数日が経ち、やっと落ち着いてきた感じもあってか、さらに研ぎ澄まされ感が増してきたように感じるのだ。人生においてやり残したことがなくなったことにより、もう願うことや望む大きな事が基本的にない。もういつ死んでも後悔しないような気分だったし、とにもかくにもそんな境地だったから、カミソリ感がものすごく突出していた。
女の子と一線を超えるという経験をしただけなのにこの変わりようは何だと自分でも思う。別の新しい自分が開けて、今までの自分とは全く別物になったような。その体験がわたしを変えた。確実に変えたのだと思う。
もうわたしには希望も絶望も悩みも苦しみも何もない。そんなものはもう女の子と性的な交わりをした時にそこへ置いてきてしまった。今のわたしにあるのは、楽しくもなければ嬉しくもなければ悲しくもない、そんな感情。実にフラットな状態のようで、これまた絶好調でも絶不調でもない。その中庸、真ん中をスーっと穏やかな風が吹き抜けているかのような研ぎ澄まされた清涼感が漂っている。と言いたいところだけれど、それがSNSをやったらどこかへ吹っ飛んでしまった。そして、またいつものキリキリカリカリし始めモードになってきた。
で、また戻そうとしている。あの静かな状態に。心穏やかな感じに。
SNSを見ると何だか煽られる。みんながこんなことがあったよ~と聞いてもいない自分のことを話し始めるからだ。なんて批判しているけれど、わたしのブログだって同じようなもので、結局そんなわたしの話など多くの人が聞きたがらないわけで、そのことに今日なども悲しい気持ちとなり、ひたすらわたしはこらえていた。
ってさっきと言っていることが違うじゃん? だから、その研ぎ澄まされた状態になっていたわたしはもう過去のものとなっているわけでして。それがネットによって破壊されてしまったという話だったりする。
SNS、フォローしていた人の多くを解除した。もういいかなって思った。そんな200人以上の人たちのつぶやきを追っているだけの余裕なんてわたしにはなくて、数人とか、いて十数人が限界。それすらもちゃんと追えるかどうかと言えばまぁ無理だろうなという案配なのだ。このフォロー解除によってフォロワーも同じように数人になってしまったとしても別にいいかなって思っている。彼らのつぶやきをわたしは読んでいないし、また同じように彼らもわたしの発言など見ていないのだ。ただ、数としてつながっていてそのままになっているだけ。
話を最初に戻すと、もうわたしにはやりたいことがない。小さなことはちょくちょくあるけれど、大きなことがない。人生全体を貫くような大きな大きな目標なんてなくて、ただこれから生きていって、そして死んでいく。そんな感じになっていくのだと思う。もちろん、ヨガや読書やお料理やこうしたブログなどの執筆は続けていきたいとは思っている。でも、何かビッグなものをやりたいかと言えばそんな気分ではない。それをやったところで何になると思ってしまう。わたしはまた病んでしまっているのだろうか。自分の内側にこもってしまっているのだろうか。けれど、こうなるのは必然だと思う。ヨガがいいのか悪いのか、世捨て人みたいな方向へとシフトさせている。ヨガをやってこの人生を明るく楽しくエネルギッシュに素敵に生きていきましょうという人もいる。そのあり方、そのためにヨガを活用するのも何ら悪いものではない。しかし、本来のヨガというものは世捨て人になるためのものなのではないかと思う。そうならないのだとしたら言い方は悪いけれど中途半端でしかない。この話をわたしのヨガのお師匠さんにしたら何だか心配してくれている様子が伝わってきて、しきりにこの社会で現実的にうまくやっていくこととヨガ哲学的なこととを両立させてバランスを取ることが必要だと教え諭してくれた。その時は何だかそれもそうだなくらいに思ったわたしではあったものの、帰りの電車でどうにもこうにも納得できない思いがわいてくるのだった。むしろわたしは先生からこのわたしの考えを肯定して後押ししてもらいたかったのかもしれない。
わたしは特にインドの山奥にこもって修行をしているわけではないけれど、精神状態は風のようになっていると思う。「思う」だから実際その風の境地にまで届いているかと言えば疑わしいながらも、わたしはふわふわとした風になってしまった。風のようにただ吹いている。吹いている目的が何なのか風が知らないように、わたしの人生の目的についてわたしは何も知らない。でも、わたしの思惑が左右するのか、それともそんな思惑などとは関係なく物事は進行していくのか分からないけれど、ともかく今のわたしにはビジョンがないのだ。何のために生きているのだろう? それがわたしには分からなくなった。こんな無力で脱力系の思想の記事なんて読む価値もないのかもしれない。読んでも何のためにもならない。読むとかえって迷いが深まるだけで何も人々の幸せに寄与できていない。こんな男に魅力なんてなくて門前払いの敬遠のスルーで終わるのが関の山だ。
もしかしたらわたしは虚無主義になっているのかもしれない。でも、虚無主義と違うのはむなしいとは思わないところで、むなしいというよりはもう人生でやることが終わってしまったというだけの話なのかもしれない。やらずに死ねないことはもうやってしまった。となれば、もう思い残すことがないのだからこの世に執着する必要もなくなる。
要するにわたしはお釈迦様が体験した道のマイルドなやつを経験したということなのだろう。お釈迦様は王族の出身で王宮で暮らした時期があった。その時にはたくさんの女性を与えられて好きなだけその女性たちと戯れることができたらしいのだ。何不自由ない生活で、性的な欲求を満たすことがいくらでもできた。そんな一般人から見たらウハウハ贅沢王宮生活もお釈迦様の心を本当の意味で満たすことはなかった。もう飽き飽きするくらい女性とは戯れたことだろう。
わたしの場合もそこまで極端ではないにしろ、女性と性的に交わってみて「こんなものか」とあっけなかったことにがっかりしているところがある。もう最高すぎて言葉にできないのではないかと思っていたことが意外と普通だったらそりゃあショックは受ける。でも、その経験は無駄ではなかった。幻想の世界から脱出することができたから。想像上のあれこれだけの世界を終わらせることができたのだから無駄ではなかった。
問題はこの絶対的な意味や価値を喪失したこれからにおいて何を軸にしてやっていくかということだ。で、ヨガを軸にしてどこまでもやっていくとわたしの場合、放っておけば自分の内面としか向き合おうとしない世捨て人におそらくなってしまう。それでいいのか。ただ自分自身の平安と安らぎを求めていればそれでいいのかという話だ。自分の魂の救いを求めて、ただそのためだけに人生の残りを捧げる。それでいいのか。いいのだろうか。わからない。「いい」って言うけれど、誰にとってのいいなんだ、それは? 日本という国家にとってはそれはいいとは言えないし(たくさん稼いでもらって国にたくさんの税金を納めてもらい国を豊かにしたいと思っているからね)、協調性とか社会生活をきちんと送ることを重視する人から見てもよろしくない。が、それを魂の静けさを何よりも重視して重きを置く人にとってはその世捨て人の生き方こそが最上だということになる。
どちらかと言うまでもなくわたしは世捨て人の方向へと傾いてきている。新聞は一面をチラ見するくらいで、テレビも一切見ていないし、ネットのニュースサイトさえも見ない。そんな情報を遮断しているような生き方をしているわたしにとって唯一世界とつながっていると思うのが、電車に乗ることや街に出かけたり、近所のスーパーでお買い物をしたり、とにもかくにも外出することくらいだ。
無駄な物というか、要らない物や思考をヨガを通して手放せるようになってきて、良かったような悪かったような複雑な気持ちではある。その結果、多くのことがまぁそれでいいんでないの、みたいな感じになってきて、良くも悪くも適当になってきたように思う。そして、他の人に対してあまり関心を持てなくなってきた。それよりは自分の世界を探求することを愛するようになったようで、そんな変化を感じる。
要するにこういうことだ。わたしにとってのときめく物をどこまでも絞り込んでいって厳選していった先に、それも極端なまでに手放していった先に世捨て人的なあり方が待っているということだ。どこまでわたしが手放したいと思うのか? どこまでが心地よくてどこからが苦しくなるのか? その案配というか、さじ加減は自分にしか分からない。試しながらやっていってその結果世捨て人となるのならそうなっているだろうし、その方向へと向かいながらもそこまでは行かずに多少の物事を手放しただけで落ち着く可能性だってある。
でも、もう人生でやり残したことがない。あるのは小さなちまちましたやりたいことだけ。それがなくても生きていけるのだけれど、やりたいとは思っている。だからやっている。自ら死のうとはせずに。けれど、少し前に朝ヨガの帰りに途中下車して海を見ていたら「わたしは生きるということに執着してしまっているのかな」と思ったりもした。すべての執着を手放したら人間は死ぬことでありましょう。
人生においてやり残したことをやり終えてしまった今、少し難しい状態になっているという気がしないでもない。新しい目標でも作りますか? 人生の目標というやつを。でも、それを達成したところで何の意味があるの? って結局ニヒリズムの形式にはまっているわたし。
意味なんかない。その意味なんかないということに意味がある、とまるで言葉遊びのような意味深な言葉がふと浮かぶ。子どものように無邪気に遊んでいればいいだけなのに、そこへ「何のため?」という大人の考えを突きつけてその純粋無垢な喜びを破壊してしまう。そして、その子どもは砂遊びや鬼ごっこやおままごとやジャングルジム遊びを禁止されて、幼稚園のお受験、小学校のお受験、中学、高校またまたお受験と常にそのための準備をし続ける環境に押し込められる。図鑑とか受験に有利になる習い事、そして勉強と、そんな役に立つものだけを仕込まれることになる。
だったら目的なんてなくていい。ビジョンとか人生の設計図とかそんなのクソ食らえだ。なんて言ってしまっていいものか。だってヨガの最終的な究極的な目的は悟ることなんだからね。解脱をしてもう輪廻を繰り返さないことが目的なんだ。あるいはそこまで突き抜けなくてもわたしのヨガのお師匠さんが言ってくれたように、現実を快適に心地良く毎日を過ごしていけるように、つまりは幸せになることをまずは目指していくという道もある。でも、悟っても、幸せになってもそれって何のためと問うことはできる。というか、すべて何かのためでなければならないのか? 何かのためにならない、何の役にも立たないことはしてはいけないのか? いつも合目的的に何かのためにひたすらやらなければならないのか? で、そのやらなければならないっていうのは誰が言ってるの? 絶対的な神様がそう言っているから、みたいなことを持ち出したところでもそれさえも神様にとってでしかなくて、相対化することはできる。いや、相対化できない絶対の存在なのが神様なのだよ、と反論が来そうだ。あー、めんどくさい。ここで神様がいないことを証明しなければならない? いや、いることだって証明できないだろう。いることもいないことも証明できない。
神様はわたしにこれをせよ、これをするなと命じる。Aさんはわたしにこれをせよ、これをするなと命じる。そのように、国家しかり、社会しかり、世論しかり、法律しかり。とそこにわたし自身のルールのようなものも加わってきて、いろいろな制限がわたしには掛けられることになる。そうなった時にどれに従うかというのは自分で真剣に考えるしかない。利益とリスクを天秤にかけてよく考えてみてその結果何をして何をしないかということが形づくられていく。
と言いながらももう人生に未練のないわたし。どうしたものだろうか。結婚して子どもをつくってそれにあえて縛られてみるとか? 仕事をして人生の思い残しを新たに作るとか?
とりあえず今、答えは出ないのでヨガをやりながら考えていきたいと思う。やりながら、やっていきながら考えたい。その結果、やっぱりビジョンが持てなくてただ毎日を行き当たりばったりに生きることになるかもしれない。子どもの遊びのように何の目的も考えないで今にい続けるというのも一つのあり方だ。
というか、そんな先のことなんて考えないで、今が楽しくて充実していればそれでいいじゃないの、というような気がしてきた。そんな行き当たりばったりな感じではダメだよ。どこかからこんな声が言われてもいないのに聞こえてくる。でも、わたしは信じたい。自分の直感を、つまりは野生の勘というものを。
っていうか「死に急ぎなさんな」。どっちみち人間はいずれいつかは100%死ぬんだから死に急いだら損だ。こんな声も聞こえてくる。そんなもうやりたいことをやったから生きていても仕方ないみたいなことを言わない方がいいよ。これからきっとやりたいことが、それも人生を捧げるだけのやりたいことができるよ。優しい人がこんなことも言ってくれそう。
先のことは分からないし、絶対こうなるはずだ。こういう風にしかならないと決めつけることなどできないのだから、とりあえずやっていくでいいんじゃない? また風向きが変わっているかもよ。10年後には結婚してるかもよ? 子どももいるかもよ? 仕事もしていて張り切って働いているかもよ? ものすごく稼いでマイホームを建てているかもよ? なんていうことが起こるのか起こらないのかそれは分からない。おそらくならないだろうけれど、100%そうならないとも断言できない。
と、疲れてきた。もう既に6000文字超えだ。結論を、結論を。
「死に急ぎなさんな。人生はまだ中間地点だろ?」
以上。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。