ごみ

いろいろエッセイ
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 毎日、生活しているとごみが出てくる。燃えるごみにプラスチックのごみに紙のごみ。ごみが出ない日というのはなくて、わたしたちは日々、いろいろなものを捨てながら生きている。
 わたしは時折、死にたくなる。それもむしょうに。それはなぜなのだろうと考えていたらふとこの「ごみ」というワードが思い浮かんで、スルスルと疑問が解けていった。これがキーワードのようだ。
 自死。自ら命を絶つこと。この行為に及んでしまう時、人は自分のことをごみだと思っているのではないだろうか。ごみをごみ袋に入れて捨てるように、自分自身を捨ててしまう。
 ごみを捨てる時にはごみとそうではないものを分けて分別すると思う。その時に、自分をごみと思うかどうか。ただそれだけのことだと思う。
 過去には、有名な一流の俳優や芸能人などが多くの人に愛されていたにもかかわらず自ら死んでいった。まわりがどんなに「あなたはごみじゃないよ。大切な宝石のような存在だよ」と力を込めて訴えたとしても、その自分のことをごみだと思っている人にとってはごみなのだろう。意味とか価値といったものが主観的なものだということはそういうことで、みんながごみだと思っていない物でも誰かにとってはごみであることはよくある。
 ごみか否かの根拠を求めていくとどうなるかと言えば、まず自分だったり誰かだったりがごみだと思っているかどうか。そして、さらには多くの人たちによってそう思われているかどうかといったところだと思う。もちろん、そこに反則技というか、有無を言わせないより強い根拠を求めるのであれば、神様を持ち出して神様はこれをごみだと思っているとかいないとか、そういう切り口で絶対的な正しい根拠を持ち出すことになる。
 世の中の建前としては、人は皆、ごみではなくて宝石のように尊いものだということになっている。平等であって差別してはいけないということになっている。でも、それは建前であって、現実としては、とてもではないけれど平等だとは言えない上に差別や偏見がそれなりにはびこっている。階級は日本にはないことになっているものの、実際にはあるとわたしは思う。ピラミッドのような上と下があって、上の人たちが下の人たちを支配して思うがままにふるまっている。ただそれを露骨に見せてしまうと暴動などの昔で言うところの一揆のようなものが起こってしまうから、あまり刺激せずに穏便にしている。
 人間が平等だということは理念としては分かる。けれども実際にはそうなっていない。その理念通りの世の中でなければならないのだとしたらこの格差自体を容認してはならないことになるの当然のこと。とは言っても、一人一人が違うのに平等になんてできるわけがない。
 さて、話を最初に戻すと、わたしが自分のことを価値がなくごみだと思ってしまうのはやはり育ってきた家庭環境が大きいようで、わたしは条件付きの承認を受けながら育ってきた。条件付きというのはどういうことかと言うと、何かができなければならないということだ。何かができて優れていてこそ愛されて大切にされる。そういう姿勢が徹底されていた厳格な家庭ではなかったものの、それなりにそうした価値観を親が漂わせていて暗黙の了解としてあった。
 だから一言で言うと、「いい子」でなければならない。そして、さらにもっと親から愛されるためには「できる子」であった方が好ましい。テストで90点や100点を取る。学校の成績表でいい成績を取る。そうすると親は喜んでくれる。さらには愛してくれる。反対に親が望まないことをしていい子でないことをしたり、悪い成績を取ったりすれば親の表情がくもって大事にされない。「もっとちゃんとやりなさい」みたいな空気になることは確実なのだから、「悪い子」「できない子」であってはいけない。それは親からの愛情を失うことを意味するわけだから自然と避けるようになる。
 そういうわけだから、わたしにとって、できないことと悪いことはわたしの価値を下げてごみにしてしまう。実際、勉強がうまくできていていい結果が残せているうちはいい。その時は自分の価値は上がっているのだから。でも、下がったらもうおしまい。わたしの価値は急落してごみ決定。
 つまり、わたしの価値は株価のようなものだった。勉強ができれば上がり、できなくなると下がる。だから、いつも不安定だった。さらにはいつも品行方正ないい子でいなければならなかった。
 条件付きの承認というのはやはり苦しくて、それよりは「何もできなくていいよ。テストで0点取ったっていいよ。悪い子でもいいよ。悪いことはしない方がいいけれど、それでもかまわないよ。ただね、お父さんとお母さんはあなたが元気でいてくれればもうそれだけでいいと思っているから。あなたは大事な大事な大切な人だよ。大好きだよ」と言ってもらえていたらどれだけ嬉しかったことだろうか。
 わたしに価値があるのか、それともないのか。その真相はわたしが神様ではない以上分からない。絶対的な真実においてわたしがごみであるか否かというのは謎だ。となれば、神様を持ち出さないのであれば、わたしが自分のことをごみだと思っているかどうか、他の誰かが思っているか否か、あるいは社会全体がわたしのことをどう評価してごみとみなしているかどうか、くらいのことしか言えないし、詰まるところそれだけだと思う。
 そういった「ごみ」という視点でこの社会だったり世界を眺めてみると、みんな必死で自分がごみではないことを、つまりは価値があるということを示そうと躍起になっている姿が見えてくる。ごみではないことを必死で否定して証明しようとさえしている。服装などの身なりを着飾って自分の格を上げようとしているのも、ごみではなくて自分が宝石のようなものだと示したいからだろうし、自分らしくあろうといろいろなことに挑戦したりするのも同じようなことだと思う。リア充のキラキラアピールも要は自分がごみではなくて、むしろ宝石のように輝いていることを誇示したいと思ってのことで、わたしには自分が無価値になってごみになってしまうことを恐れているように見える。さらには心理カウンセラー、ソーシャルワーカー、宗教家、医者、看護師、介護士などの人と接する仕事をしている人は、自分のことをごみだと言って気を落として落ち込んでいる人に「ごみじゃないですよ」としきりに励ましているのが日常だ。
 さてさて、芥川龍之介が自身の小説で、小説の価値を測定する機械が存在する世界の話を書いているのだけれど、同じように人間の価値を測定する機械ができたらどうなるのだろうかとわたしは想像してしまう。その機械ができたらわたしはごみだと、つまりは価値なしで捨てるべしと判定されてしまうのだろうか。それともあなたは宝石のように素晴らしいから生きていてもいいとジャッジされるのだろうか。となると、その機械は何を基準に、そして何を根拠にしてそう判断しているのかという話になるのは当然のこと。その基準がお金をたくさん稼いで税金をたくさん納めているかどうかだったら、真っ先にわたしは価値なしでごみだということになるわけだけれども。
「おまえはごみだ」「いや、おまえこそごみだ」などと罵り合うような殺伐とした世の中になってきたのをわたしは感じているわけだけれど、一番知りたい「わたしはごみなのか?」という問いに対する答えは分からなくて謎のままだ。
 でも、もしかしたらこんなわたしでも誰かにとっては役に立ってごみではないのかもしれないという希望もある。誰かにとってのごみが別の人にとってはごみではないということはよくあることだからだ。たとえ誰の役にも立たなくてみんなからごみだと思われたとしても、突き詰めていくと自分の役にだけは立っているのではないか。わたしが今こうして生きているということは少なくとも自分の役には立っている。いろいろな物を断捨離などをして手放していったとしても最後に自分という存在は残る。
 いずれ自分の体(肉体)が死んでごみになるのならそう死に急がなくてもいいのかもしれない。命が尽きれば自然とごみになって、自然へと還っていく。それでいいのだろう。自分で自分をごみだと思って処分しなくても。

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