10年日記

いろいろエッセイ
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 教会のたよりで牧師が10年日記を20年ほど前から続けているという話を読んで、影響を受けやすい星は早速「わたしも!」とネットで10年日記を注文した。注文してから翌日には届いて、昨日から始めたところ。
 10年日記なんて今まで買ったことがなくて、日記帳が届く前、どんな感じなのか想像をふくまらせていた。実際に商品が届いてみたら、「何だかすごくいいじゃん。」がわたしの第一声だった。
 何かいい。何がいいかって言うと、本当に自分の10年の歩みを記録するのにふさわしい感じがその日記帳からしたからだ。紙も上質な保存に適した紙だし、中もシンプルで申し分なしなのだ。1日分が5行になっていて、これだったらなかなか物事を続けられない飽きっぽいわたしであっても続けられそうだと思った。
 昨日(3月3日)から始めた10年日記。その日から始めたことは始めたのだけれど、最近あった祖母のことをしっかりと書き込んでおいた。
 自分史を残したいと思う人もいるらしいけれど、何だかその気持ちに少しばかり近づけてきたようで、みんなそれぞれ自分の人生の生きた証のようなものを残したいということなのだろう。
 わたしは自分史を残したい衝動はあまり強くない方だ。でも、自分のことを書き綴った小説を実は公表はしていないけれど、1つばかり書いている。だから、何だかんだ言って、自分史を残したい方なのかもな。たしかに何も残さないで潔く死んでいくというのはできない性分なのかもしれない。やっぱり、何か残したい。自分の思考のほとばしりを後世までいかなくても、死後数十年くらいは残しておきたいものだと思う。って、このことはまさにわたしが自分の小説で取り上げたことで、何か生きた証を残したいんだみたいなことを書いたな。
 ともかく、そんなわけで10年日記を始めた星さんなのだ。続けられるかな? ちゃんと続けていけるかな? まぁ、続けられなかったらそれはそれで味があるからいい。始めようと思ったことに意義があるのだから、まぁ、その時はその時でいいにしようではないか。(←こういうスタンスでいるからなかなか物事が続けられないんだよ。苦笑。)
 10年後にはわたしも48だ。もうその頃には50代も目前に迫っているわけだ。10年後、わたしは何をやっているのだろう。一応、人生の計画みたいなものをざっくりとは立てているけれど、人生予報って当たらないんだよね。10年前に現在のことを予想できなかったのは自分自身がよく分かっていることで、本当人生って思い通りにならない。10代後半の時のわたしが想像していた30代って今のわたしとは全然違う。30代にはもう結婚していて、子どもも2人くらいいて、新築マイホームに住んでいて、と人並みのことは全部やっているみたいな、そんな未来を想像していたのだ。でも、今のわたしは全然違う。仕事もしていなければ、独身だし、もちろん子どももいないし(本当だよ、子どもはいないよ。)、マイホームなんて建ててない。でも、今は今で味があって、そういう世間一般の人並みの幸福はできていないけれど、今の暮らしは満更悪くもないんだな。
 10年日記開始から2日目の今日。まだ2日しか経っていないのに何だかワクワクしている。この日記が自分の歩みの記録で埋められていくのがとても楽しみなのだ。
 これから10年間いろいろなことがきっとあるだろうと思う。いろいろなイベントがあり、出来事が起こり、そして何よりもわたし自身が日々変わっていく。どんな風になっているかは、その時になってみないと分からないけれど、それでも成長していたらいいなって思う。それがわたしの願いだ。
 わたしは今まで、何のために成長するのだろうとよく立ち止まることが多かったように思う。でも、もう理由なんて要らない。ただ、本能だと言っておけばいい。人間の本能、それは成長すること。より良くなること。良くなった先に何があるのだと問うてくる輩には、じゃあ、良くならなかった先に何があるのだと逆に質問したい。良くなっても良くならなくても、先には同じものが待っている。それがわたしにとっては天国であり、永遠の安息なのだ。別に成長しなくたっていい。成長したくないのであれば、無理にしたくもないのにする必要はない。でも、わたしは成長したいんだ。何だかよく分からないのだけれど、成長したいんだ。理由? 自分でもよく分からないよ。ただ、成長しようと努力して研鑽していることが好きなだけなのかもしれないな。
 これからの10年間、わたしにとって成長の10年であったらいいな。
 人生100年時代のだいたい半分近くまで生きてきて、まだまだだなって思う。これから、これからだよ。
 そうだな、毎日をしっかりと生きていきたい。10年後に日記帳と共に何を思うか、今から楽しみで仕方がない。

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