星のアシュタンガヨガ日記 第13回「ウサギではなくてカメのようにゆっくり、ゆっくりとヨガをやるべし」

星のアシュタンガヨガ日記
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 どうもー。愛と勇気とヨガパワーで元気100倍の星さんこと星大地です。アシュタンガヨガを始めて絶好調! もう怖いもの知らずで順風満帆です。さぁ、かかってきなさい(謎)。
 なんて、のっけからいかにもうまくいってますよオーラ全開かと思いきや、なかなか思うようにはいかない。それが物事であり、それが人生だったりする。まぁ、これは当たり前のこと。全部が全部うまくいってしまったら、もう現実なんて作り物になってしまうからね。
 うまくいかないこと。ヨガでうまくいかないこと。いくつかある。まず、シルシャアサナ(ヘッドスタンド)が相変わらずできるようになっていないこと。それから、あれからというもの、新しいアーサナ(*ヨガのポーズのこと)が何も与えられていないこと。だから、来る日も来る日もハーフプライマリー(*プライマリーシリーズというアシュタンガヨガの最初のシークエンスのハーフ、つまり半分くらいまでのもののこと)を練習しているわけで、同じ練習が続いている。
 たしかにヨガというものは毎回毎回違う。自分の身体と心の状態が同じ日はないから、同じポーズを同じように決められたとおりにやっていても、毎回、毎回その日ごとに違う。でも、だんだん単調になってきたというか、飽きてきたわけではないのだけれど、刺激が少なくなってきた。わたしはウサギとカメで言うならもちろんウサギさんの方だから、どんどん飛ばして最短でゴールまで目指そうとする。無駄なことなんかほとんどしないで、効率的に進んでいこうとする。だから、無駄なことが基本的にあまり好きではなくて、どうしてもゴールの方ばかり考えたり見たりしてしまう。要領を押さえて効率的に練習したり進めていって上達することには長けている。でも、カメのように、あるいは牛のように一歩一歩というのがどうも好かない。
 が、どうやらそれではやっていけないらしいということが今日、よく分かる出来事があった。それはヨガの道場の先生と生徒さんとの間でこんなやり取りがあったからだ。先生はこんなことをその生徒さんに言っていた。
「○○さん、あなたはまだ若いからプライマリーを5、6年集中してやった方がいいと思う」。それに対してそのアドバイスを受けた生徒は答える。「私もそう思っていました。そうしたいと思います。ありがとうございます」。
 ご、5、6年? 気の短いわたしはそのやり取りに一瞬言葉を失った。ハーフプライマリーを4ヶ月かそこらやっているだけで、ゼーハーゼーハー息切れし始めているわたしをよそにその生徒さんは5、6年はプライマリーをやっていこうという気持ちでいるのだ。わたしだったらきっとこんな風に返していたことだろう。「先生、5、6年なんていうのは長すぎますよ。もうその頃にはわたしもヨガを続けていないかもしれませんよ」と。
 ちなみにわたしに先生は「ハーフプライマリーを半年くらいは続けた方がいい」みたいなことを言ってくれていた。そのプライマリーを5、6年やった方がいいと言われていた生徒さんはだいたいその人からわたしがヨガ歴を聞いたことがあるから分かるのだけれど、もうアシュタンガヨガを4年はやっているらしいのだ。その人が5、6年さらにやるとするとヨガ歴9年とか10年くらいにその時にはなっている。もしかするまでもなく先生は「アシュタンガヨガの場合、10年目までは初心者」というこの数字をもとにしてあの先の言葉を言ったのではないかとわたしは推測する。10年目までは初心者だから、それまではプライマリーを集中して練習して基礎を固める。そういうような意味だったのではないかと思うのだ。もちろん、その生徒さんがどこまでヨガが進んでいて、どこまでアーサナが与えられているかはわたしには分からない。だから何とも言えなくて、セカンドシリーズの結構行ったところまで進んでいるのかもしれない。そこまで進んでいる上で、基礎をもう一度固めるために5、6年という話である可能性もある。
 それはともかくとして、わたしはその悠長な、というか現代のすぐに結果が出るコスパ重視のあり方とは対照的な話を聞きながら思ったのだ。ヨガっていうのは1年やったからどうとか、5年やったから、10年やったからというものではなくて、人生をかけてやっていくものではないのか、と。わたしはあまりにも短期的に結果を出そうとしていて、そのためには無駄なことをやっている時間なんてない、と短いスパンでしか考えることができていなかった。そうではなくて、短期的な目標の達成もスモールステップという意味では必要ではあるものの、長い目で見てどうかということなのだ。5年、10年ではなくて、わたしの人生においてどうかという長い視点で物事を考えるということ。
 そのことに改めて思いを向けてみると何だかすごく恥ずかしい。4ヶ月しかアシュタンガヨガをやっていないのに、それでももっと先へ進まねばと焦っていたわたしがとても子どもっぽく見えてくる。一方の(別に比べる必要もないのだけれど)その生徒さんは5、6年という時間を自分にとって必要な時間として考えることができている。それくらいやれば自分のヨガはもっと深まっていき、人生において有意義であろうと長い目で物事を考えることができている。どちらの方が大人か、成熟しているかと言えば明らかにわたしの方ではない。焦って、苛立ちさえして、すぐに結果を求めて、その結果が得られないとたちまち不平不満さえ言い出す始末の未熟なわたし。
 またその生徒さんとは別のある生徒さん(ヨガ歴10年以上)はこうわたしに言ってくれた。「ゆっくり、ゆっくりやっていくしかないと思います。最初私もここへ来た時には周りの人たちのレベルが高すぎて『何、この人たち』って思いましたから。でも、やっていけば少しずつだけれど確実に上達していきます。それでいいんです。あせらなくても。だから、お互いゆっくりとやっていきましょう」。
 たしかに目標を立てて、その目標を達成するためにどうするのが一番効率的で最も時間がかからないのか、と考えることも必要だ。でも、それが通用しない世界がある。それがヨガであるらしいのだ。「急がば回れ」のように最も非効率で鈍臭い回り道を行くのが一番近い。いや、その回り道を行かなければゴールにたどり着けないというのがヨガであるのかもしれない。
 ウサギのようにすぐにゴールに着きたがる性分のせっかちなわたしに最も必要なことはカメになることのようだ。カメになってゆっくり、ゆっくりと歩く。焦らず急がず、けれど止まることなく着実に進んでいく。一歩一歩、一歩一歩進んでいく。高い山も地味な一歩一歩が積み重なって、はるか彼方の頂上へとたどり着くことができる。山登りにたとえるなら、今のわたしは山登りが始まったばかりなのに急ピッチの急ぎ足で飛ばして、そして苦しくなって息切れして、「山登るの続けようかどうしようか」と思案しているようなものなのだと思う。まだ始まったばかりなのに、ペースを乱していて、ゴールはまだまだ遙か先にあるのに、そのゴールのことばかり考えて、挙げ句の果てには「そのゴール(頂上)にたどり着くことは意味があるのだろうか」などと最初の頃の意気込みはどこへやらとばかりに、山登りの意義を問い始める始末。だから、今のわたしに言えることは「急ぎなさんな」なのだ。そして、「とりあえずペースを落としてゆっくりでもいいから、山登りを続けなさい」なのだ。まだ始まったばかり。まだまだ始まったばかり。昨日始まったばかりのようなものではないか。まだ4ヶ月だろ、と。
 あの歩みの遅いかたつむりやカメであっても、少し目を離すとすごく遠くまで行っているように、ヨガの歩みもゆっくり、ゆっくりやっていけばものすごく高い地点にまで到達できるのではないか。先生は言う。「練習は裏切らない。だから続けてください。」と。そして、続けることが何よりも大事なのだとわたしが怪我をした時には優しく言ってくれたりもした。
 何かを上達したい。うまくなりたい。ものにしたい。そう思う時にはそれをとにかく続けること。ゆっくり、ゆっくりでもいいから続けること。目に見える結果がでなくても諦めずに続けること。誰かが「諦めたらそこで終わりだ」と言っていた。それは勝敗を競うものばかりではなくて、何かを上達することにおいても言えることだと思う。「もういい。もううまくならなくていい。自分はこれでいいんだ」と思った瞬間にもう成長はないし、そこで止まってしまう。それからはもう進んでいかないのだ。でも、ゆっくりでもいいから続けていればたとえそれが毎回1センチ、いや1ミリだとしても着実に前には進んでいく。わたしのこの日々のわずかなブログのアクセス数だって、今までのものを全部足してみれば数万にはなる。毎日10くらいしかブログにアクセス数がなくても、それが1年ともなれば3650、5年で18250、10年で36500、20年で73000にもなる。でも、ブログそのものをやっていなければアクセス数はそもそも0だし、途中でやめてしまえば(ブログをネットで非公開にしたり削除したりする)それからはひたすら0だ。
 ゆっくり、ゆっくりやっていく。先を急がない。そして、結果がすぐに出なくてもそれでも続けていく。ゆっくり、ゆっくり。気長に気長に。わたしの人生という長いスパンでヨガをとらえようとすれば自ずと気持ちのあり方は変わってくる。まだアシュタンガヨガを始めて4ヶ月しか経っていないけれど、わたしの人生においてどうかという視点を持てたらと思う。ゆっくり、ゆっくり、けれど着実にカメのようにやっていった先に見える素晴らしい景色。それはどんな景色なのだろう?

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