小旅行

いろいろエッセイ
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 昨日はブログの更新ができなかった。なぜかと言うと、疲れていたからだ。それも心地いい疲れ。小旅行をしてきたのだ。
 皆勤賞を狙う勢いだったヨガ教室をお休みさせてもらったわたしは母と一緒に静岡(*静岡市)へと出掛けた。お目当てはとある写真展。星は写真とかまったくの素人で今まではあまり興味がなかったんだけれど、教会のある方がその写真展にご自分の写真を出展(でいいのかな?)されるということで、「よかったら来てください」と誘われたのだ。興味全開というわけではなかったものの、写真というものがどういうものなのか興味も持ち始めていたので行ってみることにしたのだった。
 会場に着くと、こじんまりとしたワンフロアにそうだな。40枚くらいの写真が額縁に入れられて展示されていただろうか。写真のド素人であるわたしにはカメラの仕組みはおろか、どういう写真が高度なもので優れているのか、などといったことは分からない。けれど、自分の感性のおもむくままに写真を見ていったらこの写真展、クオリティーが高いぞと思った。少なくともわたしの写真などとはレベルが全然違っていて、何というか写真にたたずまいがあるんだなぁ。稟としているというか、物語っているというか。
 で、見ていったら一葉の写真に目が釘付けになった。それは人物を撮ったものなんだけれど、とにかく何というか臨場感がすごいんだ。その人の名前を見ると、「講師」とある。やっぱり、先生だったんだ。
 その写真展を開催しているのはいわば、趣味で写真を撮っている写真愛好家の皆様方で、その集いにその先生を招いて批評してもらってアドバイスを受けるとのことらしい。わたしを招待してくださった方の写真もとても素晴らしかったのだけれど、その講師の先生の写真がその中でも飛び抜けて、抜きん出て素晴らしくてとても印象的だった。何て言うか、うまいんだ。うまいを通り越して感心させるようなそんなうまさがある。だてに先生じゃないな。
 そして、その会場で受付とか案内をしてくださったその写真サークルのメンバーの方と少々長い立ち話をした。その話によると、最初はだいたい写真を撮り始めると風景写真から入るらしい。で、だんだんやっていくに従って、人物写真を撮るようになっていく傾向があるとのこと。さらには、人物というのは撮るのが難しい。なぜなら、その方は一期一会という言葉は使わなかったけれど、一期一会のように同じ表情というものはありえないからだそうだ。その時、その場限りの瞬間。それを写真として切り取る。そこに面白さがあり、醍醐味があり、難しさもある。あとこんなこともわたしたちに言ってくれたな。写真というものはその人の考えていることが全部出てしまうんだ、と。わたしも曲がりなりにもこうして文章を書いているからそれとなくその意味が分かるんだけれど、作品にはその人の思想が、信条が、もっと言うなら価値観さえも出てきてしまうのだ。それは写真も同じで、その人の考えが全部出てしまう。自由にできる。写真は自由に撮ることができる。だからこそ、その分、そうしたものが写真という形として現れてしまうのだ。
 彼らの写真を見ていたら、何だか写真を撮りたくなってきたぞ(って星さんたらすぐ影響受けるんだから)。ってなわけで会場を後にしたわたしたち親子だった。
 そして、お昼ご飯。もちろん外食でおいしそうなお店をセレクト。そこの料理もおいしかったけれど、わたしは静岡に久しぶりに来て気になっていたことを母に料理が来るまでの間に打ち明けた。それはみんな、街を歩いている人たちの目に生気がないということだった。何というか、通り過ぎていく人たちがみんな生き生きとしていなくて、とにかく苦しそうに見えたのだ。もっと厳しく言うなら目の焦点が合っていない。そのことを母に言うと、母はこんなことを言った。「心が満たされないのを物とかで埋めようとしても満たされないんじゃないの?」たしかに街行く人たちは最新の今風のきらびやかな服を着ている。だったらもっと楽しそうな顔をしてもいいんじゃないの、とも思うけれど、やはり心の空白は物で埋めることはできないのだ。やはり、それは物やお金以外のもので埋めなければならない。精神の充足、精神的な幸福度を高めていくこと。だから、何だか街の人たちがかわいそうに思えてきたのだ。おそらくわたしなんかよりも何倍もの収入を得ていて好きなことをしたり、好きなものを買ったり、わたし以上に自由にできていることだろう。けれど、どうやらそうしたことでは彼らの気持ちは満たされない。お金をもっともっと稼いで、もっともっといい物を買えるようになって、もっともっといい暮らしをして、どこまでもどこまでも貪欲に求めていく。そして、そのために自分をすり減らして犠牲にするような働き方をする。その方向性で進もうとする時、そこにあるのは充足感でも何でもなく、欠乏感や欠如感でしかない。つまり、足るを知らないのだ。どこまでやっても、どこまでいっても満たされなくて空虚でしかないのだ。
 お昼を食べ終えたわたしたちは母にはまた別の用事があるので、ここで分かれて別行動となった。わたしはそれから由比(ゆい)に行くために列車に乗った。なぜ、由比に行こうと思ったのか。それは海を見たかったからだ。以前、わたしは「波」という記事を書いたかと思う。その波のごとく、海を見たくなったので、そう言えばJRで由比あたりで海が見れたなと思い出して急遽、由比へ行くことを決めたのだ。
 が、波を見ることはかなわなかった。それはわたしが疲れてしまっていたからだ。これ以上先へ進むと体力的に帰ってこれなくなるんじゃないかと危惧したからだ。それでも漁船が繋留してある海までは行けた。波が見られない海ね(だから、海の水を見て、匂いをかいだだけ)。
 でも、そこには(由比漁港)桜えびの直売所があって、桜えびのかき揚げを売っていた。羽振りの悪い星さんは「午後の2時だからもう閉めるよ。注文何かある?」とその直売所の人から聞かれて600円のかき揚げ一枚を注文しただけ。で、さらに「味噌汁飲んでく?」と本当だったら150円もする桜えびのお味噌汁をただで飲ませてもらって、さらには紙コップに入れてくれたいわしの小さいのの揚げ物までくれたのだ。よっ、太っ腹。でも、ここまでやってくれるからにはおそらくコロナで観光客が激減したという事情もあるのだろう。何だか、その涙ぐましいサービス精神がもちろんすごく嬉しかったものの、今思うといじらしくも感じられるな。
 それにしても人がいない。完全にこれは過疎化してるな。というのも静岡駅周辺から急に由比にやってきたからそのギャップに驚いているということもあるのだろう。でも、それにしても人が少なくてなかなか人に会わない。
 それにしても桜えびのお味噌汁、おいしかったなぁ。店の人に聞くと、かつおのだしだと言う。それにわかめと桜えびが入っている。桜えび特有の甘いお味がお味噌汁の中に広がっていて、さらにはお味噌もしっかりと効いていてこれがまたおいしいの。
 で、電車に揺られて自宅へと向かう。帰ってからすぐに桜えびのかき揚げを母と仲良く食べた。うまい。これはうまい。かき揚げというよりも桜えびのお煎餅に近いような、そんなかき揚げ。それに直売所というだけあって、桜えびも新しいだろうし、何よりも揚げてからそんなに時間が経っていない。パリっとサクっとほどよい衣の量で揚がっている。これは職人技だなぁ。今までわたしが食べてきた桜えびのかき揚げが周回遅れくらいの差をつけられたくらい、このかき揚げはうまかった。固定概念が打ち破られたよ。何だ、たかが桜えびのかき揚げだろう、ではないのだ。絶品。美味絶品。もうこれ以上、このかき揚げをおいしくすることはできない。もう完成形と言っていい。100点満点だったら4、500点つけてもいいくらいのうまさ。それくらいうまかった。由比に行かれる方はぜひ直売所の桜えびのかき揚げをご賞味あれ。絶対おいしいよ。
 毎日散歩くらいのインドア派のわたしが思ったこと。それはわたしは毎日旅行をしているということだ。ほとんどどこにも出掛けていないけれど、本の世界の小旅行を毎日しているんだ。だから、わたしの生活も捨てたもんじゃないなって思ったんだ。どんなに遠くへ出掛けようと、心はここにしかない。だから、たまにはいいけれど、まぁ、わたしの場合、そんなに旅行とかしなくてもいいかなっていう感じがしたのだ。でも、今回の小旅行、それはそれで面白くて楽しかった。それに一人でも見知らぬ土地へ行けたというのも自信へとつながったように思う。何だ、案外できるじゃんってね。
 以上、わたしの小旅行記でした。

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