選択する葦

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 時々、体が1つではなくて3つくらいあったらいいのになぁと思う時がある。当たり前のことだけれど、何かをやるということは別の何かをその時にやることを諦めること。このシンプルな事実に気が付いてからというもの、どうも一日の活動を始めるにあたって何をしようかと結構考えてしまう。今日も今こうして執筆をしているわけだけど、執筆しようか、それとも読書をしようか、あるいはヘブライ語の勉強をしようか、とこの執筆をすることに決めるまでに幾多の変遷を通り抜けてきている(ってオーバーだよ。オイ)。
 そう考えていくとわたしたちの毎日って選択と決断の連続なんだなって思う。何をしよう? 目の前には3つか4つくらい選択肢がある。で、思い切って「えいやっ」って一つを選ぶ。選択する。そして、そのことが終わったらまた次には何をしようかとまたまた目の前には何択か選択肢が。選んで、選んで、とにかく選んで、決めて、決めて、決める。
 こうした日々の選択によってわたしたちは形作られていく。筋トレとか散歩とかヨガとか水泳とか、体を動かすことを多く選択した人は引き締まった体を手に入れているし、運動をあまりしないでひたすら読書とか勉強に精を出した人は頭が良くなっていて知識も豊富になっているし、そうしたことよりも旅行とかショッピングとか会食とかそうしたお出かけをメインに毎日を過ごした人はやっぱり社交的な感じが強化されている。って当たり前じゃん。何を星さん改まって当たり前のことを力説しているわけよ? うーん、そうだな。日々の選択によってわたしたちが形作られているってことをともかく言いたいんだ。
 選ぶこと。それはすべてのことにおいて言えること。今挙げたのは何をするかという行動の話だったけれど、それ以外にも何を食べるかということも日々選んでいるし、意識を向ければ積極的に選ぶことだってできる。気が付くと食べ物、食事は毎回同じような感じになってしまってマンネリ化しがち。だいたい毎回似たようなものになる。何を食べるかということ。これはとても大事なことで多種多様な食事法が百花繚乱にこれがいい、あれがいいと咲き誇っている。
 で、アーユルヴェーダの基本的な考え方はどんな感じかと言うと、自分で選んでいくことを重視していく。そして、自分の体と心の声、要するに自分の内側から聞こえてくる声を大切にするんだ。わたしたちは本来、自分にとって必要なものとそうでないものを直感的に判断することができる。この直感には侮れないものがあって、最初の直感が案外その通りだったっていうこと、多くないだろうか。何か目の前にある料理を食べる気がしない。栄養的には十分バランスが取れていておそらく体にもいいはず。でも、なぜか食べる気がしない。あるいは、おいしいだろうと思って食べ始めたんだけれど、どうもおいしくなくて体が受け付けない。体にあまり良くないような気がする。こういう時にはわたしたちの本能的なもともと備わっている力が発動しているのだ。わたしにもこういうことはよくあって、これはしょっぱすぎるんじゃないかと思ったり、ちょっとこれは油っぽすぎて最後まで食べる気がしないと思ったり、最初はこれくらいの量であれば十分食べられると思ったけれどもう結構お腹いっぱいになってきたとか、体の声を聴こうとすると案外聴こえてくるものなのだ。
 もちろん例外はあって、甘いものをドカドカ食べたくなったり、お酒を大量に飲みたくなったりというのは自分自身の感覚がおかしくなって狂ってしまっている状態で、その欲求は本当のものではないとアーユルヴェーダでは教える。
 何をするか。そして、何をしないか。これによって、と言うかこれ次第で体と心は健康にも不健康にもなる。健康、不健康と言ったけれどアーユルヴェーダは幸福になる方法を教えてくれている。目指すは幸福感に満ちあふれた状態で、そのためにあるのだ。
 わたしが最近の生活で大きく変えてみたことがいくつかある。それはまず朝、きちんと早起きすること。朝、オイルマッサージをしてシャワーをできる限り浴びるようにすること。そして、ヨガを朝と夕方の1日2回やること。こうしたことをやれば、その分時間は削られてその他のことにあてることのできる時間は減る。でもそれは何かを選んでやっていくにあたって避けられないことであって、1日が24時間あるとしたら何かにその24時間を使わなければならないのだからただそれを選んだだけでしかない。ともあれ、変えてみた。毎日の生活を少し自分なりに変えてみたのだ。そうしたら体調がさらに良くなってきた。気分もより明るくなり、活力や気力もさらに向上した。生命力が高まってきたと言ってもいい。何だかこうして自分の選択によっていい結果が得られると嬉しいものだ。もちろん神頼みというか、棚からぼた餅的な嬉しい出来事も嬉しいのだけれど、自分が自分自身や置かれている環境に働きかけてその結果、自分自身の健康が増したり、環境が良くなったりした時には格別な喜びが生まれる。人生はコントロールできない。だから神様にすがって頼るしかない。それはそれで一つの生き方だと思うのだけれど、わたしがヨガやアーユルヴェーダと出会ってそれらを実践してみて思うことは自分で変えることができることも結構あるんじゃないか、ということだった。これは難しいところなのだけれど、何も極端な完全な自力をわたしは勧めたいわけではない。言うまでもなく人間という存在はすべてのことを全部自分の思い通りにするなんてことはできない。自分の体や環境に働きかけて少しばかり寿命を長くすることはできるかもしれないけれど、不老不死なんていうのはそもそも無理だと思うし(最近ではこれを目指している人がいるけれど無理じゃないかな)、わたしは人間、死ぬ時には死ぬものだと思っている。人間を含めた森羅万象にはそれぞれその時があって、その時が来れば命は尽きて天に召されていくのだ。
 完全な自力。そして反対に完全な他力。どちらも問題をはらんでいる。
 完全な自力は人間を思い上がらせて自分を神様だと勘違いさせてしまうし、老いとか死をも乗り越えようとして神様の造られたこの世界のあり方に真っ向から戦いを挑もうとする。自分は最強の存在で自分で何でもできて人からの助けなんて不要。それは一見すると力強いようだけれど、それが病や老いや突然の不運な出来事にあうとみじめになってしまう。自分を頼みにしていたのに自分はポンコツになってしまった。もうダメだと悲嘆に暮れる。元気な時はいいものの、逆境にあうともう意気消沈ものなのだ。
 一方、完全な他力は人間からやる気を奪い去ってしまう。その結果生命力が枯れたような依存的な精神状態になってしまい、何も向上しようとすることなく進歩が何もない。自分は無力。そう思っているから自分自身や環境を変えようとなんて思えない。ただ誰か優れたカリスマ的な人物や神仏にひたすらすがって生きていくのみ。
 だからわたしは自力と他力が程良く組み合わされているようなほどほどの加減がいいと思っている。自分ができることはやる。自分で変えられることは変えていこうとする。けれど、自分で変えられないこと、どうしようもできないことは誰か(神仏なども含む)に任せたり委ねる。自分ができることとできないことをしっかりとわきまえていて無謀なことはしない。チャレンジはするけれど、しっかりと自分の限界と向き合えている。そんな感じがいいとわたしは思うのだ。
 人生において、毎日の生活において何を選択していくか。何を大事にして、何に重きを置くか。このシンプルなことによって、人生の質も、自らの人生が幸福に包まれるかどうかも決まる。わたしは何でもかんでも神様頼みにはしたくない。自分でできることはきちんとやる。変えられることは変えていく。そんな姿勢でこの人生に臨んでいきたい。自力で変えられることは変えていく。でも、自分にとってどこあたりが限界なのかということは常に意識するようにしたい。
 人間観はいろいろあるとは思う。人間はちっぽけなんだ。たしかにそうだ。でも、それだけではなくて人間というのは考える葦なんだ。考える葦。自然の前では無力な人間。ちっぽけにも見える。しかし、必死に考えて少しでも良くしよう、良くしていこうと懸命に生きている。それが人間なのだと思う。つまり、人間は考えながら選択していくのだから、選択する葦だとも言える。
 人間はどこまでも弱く破れの多い存在なのか。それとも満更捨てたものではなくて、自分次第で進歩向上していける強さを持った存在なのか。ある面から見れば弱いのだけれど、ある面から見れば強い。わたしはそんな人間観を持っている。弱いだけでも強いだけでもない。どちらも併せ持っている存在なんだ。ヨガ、アーユルヴェーダの人間観とキリスト教の人間観は真逆で対立しさえする。でも、両者ともまるで別の人間を見ているようでありながらも、それぞれ人間を違う面から眺めている。だから人間観が異なっているのだ、と思う。人間は単純な存在ではなくて複雑な存在。弱さも強さも併せ持つ。だから面白いじゃないか。だから魅力的なんだ。
 やれることはやって、できないことは神様にお任せして委ねる。そんな感じでやっていけたらなって思う。それがわたしなりの折り合いの付け方。趣の違う色を混ぜ合わせると面白い色ができる。わたしの色は今、おそらくそんな感じになっているだろうと思う。中途半端? どっちつかず? いやいや、これはこれで面白いと思うんですけどね。

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