わたしの土の器を空にしますから、恵みの雨を豊かに降り注いでください

キリスト教エッセイ
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 ここ最近、祖父母のことで毎日が目まぐるしくて信仰を育てる営みをないがしろにしてしまっていた。
 わたしにとって信仰とは何なのか。ここまで信仰と離れて距離を置いていると、本当に自分には信仰があるのかどうかと疑わしくなってくる。一応、というか毎週の礼拝は守れている。けれど、それもどこか身が入らず、受け身のような感じで能動的に参加できていない。「信仰は受け身の面が大きいのだから、そんなに気にすることはない。自分の意志よりも神様の御心だ。」そう言いたくなる気持ちもわかる。けれど、何というかわたしは真剣に自分自身が神様に態度を見せることも必要ではないかと思うのだ。もちろんそれが一線を超えて、救いは自分の力で獲得するものだというところまで行ってしまうとそれはまずいが、自分の態度を表明すること自体は必要なことだ。
 2018年の12月23日に受洗してから2年と半年あまりが経とうとしている。その間、わたしの信仰はアップダウンを繰り返してきた。これまで信仰の危機のようなものも通過してきた。神様を信じることが嫌になったり、何か無意味なことをやっているのではないかという思いに駆られたこともあった。でも、そのたび何だかんだで乗り越えてきた。牧師が礼拝の説教でも言っていたことだが、受洗してから3年くらいで教会を去っていく人が多いらしい。キリストを信じて洗礼を受けた時が最高潮だとすると、それから徐々に下降していき、3年あたりで限界になって教会を後にする。そんな定式のようなものがあるらしい。わかる。その気持ちよくわかる。
 自由になるために洗礼を受けたはずなのに、かえって教会生活を送ることによってしがらみに束縛されて、そう、キリスト教というものにがんじがらめに縛り付けられているような感じがしてきて、そこから解き放たれたいと以前わたしは思ってしまったことがあった。
 礼拝は毎週である。そして、教会の人間関係も教会生活を送っているかぎりは付いて回る。教会員になったらなったで、奉仕などもやらなければならない。それから、教会員として毎月の維持献金も納めなければならない。自由かどうかと問われるならば、明らかに教会というしがらみに束縛されているし、ふと教会員になる前のお客様扱いされていた頃の気楽さ、気ままさを思い出しては溜息はつかないが、それでも妙に懐かしくなることがある。
 でも、実際に教会員になって教会の一員として生活するようになってから、求道者だったころとは違う仲がいいだけとは異なる連帯感、仲間意識のようなものが感じられるようになったことは確実である。これはなってみないとわからないことだと思う。教会にはいろいろな形態の人がいて、教会員にはならずにゲストみたいな形で礼拝に来ている人もいるけれども、案外そういう人は一時期だけ来て来なくなることが多かったりする。責任がない分、気楽で気ままではあるが、長続きしないのである。
 話を戻してわたしにとって信仰とは何なのか。自分でもよく分からない。ある時期は熱心に神様、神様と言っていたのに、ある時期には神様がまるで生活の中心ではなくおまけのようなものにすぎなくなってしまっていたりして、わたしの神様への態度は安定していない。まさにアップダウンが激しいのである。
 でも、多かれ少なかれ個人差はあるものの、みんなそんなものではないのかとも思う。波があるのが人生。逆にずっと信仰の態度が水平に安定している人などいるのだろうか。いたとしても、そういう人はまれで少数だと思う。
 わたしにできること。それは神様の恵みの雨を器を空っぽにして受けることくらいだ。わたしたちはともすると、現世的な思いなしで器をいっぱいにしてしまう。これをやった方がいい、あれをやった方がいい、これをやらなければダメだ、あれをやると得をしてこれをやると損をする。そんなこの世の生活の思い煩いで頭がいっぱいになってしまっているのだ。だからこそ、一日のうちに神様を迎え入れる空っぽの時間をつくるのだ。そして、神様の恵みのスペースを確保しておく。そうしないと、いくら神様が恵みの雨を降らしてわたしたちを満たそうとしても、雑念などでいっぱいになってしまっていては、何も入らない。
 心を落ち着かせる時間をつくり、自分自身の信仰を育んでいけたらと思う。

 神様、わたしの土の器を空にしますから、恵みの雨を豊かに降り注いでください。


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