わたしの昔の信仰エッセイを読み直してみて今思うこと

キリスト教エッセイ
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 今日、午前中わたしが何をしていたかと申しますと、以前のブログ記事をまとめていたんだ。まとめてどうするか、って? いやぁ~、電子書籍にしてみようかな、ってね。ってなわけでこのブログの電子書籍化を頼まれもせんのにやっていたわけです。まぁ、このブログを電子書籍にしたところで売れて数冊でありましょう、なんて売る前から寂しいことを言っている星なのであります。いや、売るからには売りましょうよ。千冊、万冊、いやもっと。でも、売れないなら売れないでいい。ただ、ネット上だと過去の記事なんかが埋もれてしまっていてほとんど読んでもらえていないみたいだったから、Kindle(キンドル)なんかで読めたらいいかなぁ、なんてね。それにKindleの方が目も疲れないしね。
 が、驚いた。何に驚いたかって、自分の過去の文章をKindleに入れて読み直してみたんだけれど、その文章のまっすぐさに。何かね。すごくまっすぐなんだ。まっすぐすぎて恐いくらい。過去に書いたキリスト教的な文章を読んでいたんだけれど、何ていうか、まっすぐ前だけを見ている。が、遊びが全然ない。白黒はっきりつけようとしているのはもちろんのこととして、融通がきかない頑固な感じがバッチリしていて、すごく苦しそうだなぁっていうのが感想。昔のわたしってあんなにガチガチで真面目一徹だったのぉ~と衝撃を受けると共に、それだけ真面目だったから毎週ほぼ休まないで教会の礼拝へ行けたんだよなぁとも思ったりもする。
 昔のわたしと今のわたし、どこが違うかって言うと、それは車の運転にたとえてみるとよく分かる。さきにも遊びがないって書いたけれど、昔のわたしはまだキリスト教とか人生について習い始めたばかりで、とにかく必死で、車の教習でハンドルを必死ににぎって前方をぐわってな感じで、ガチガチに緊張しながら、死に物狂いで何とか運転しているような、そんな感じだった。今はと言うと、だいぶ慣れてきて(適当になったのと違いますよ?)ハンドルをにぎりながらもまわりを見回すだけの余裕が出てきて、やわらかい運転になってきている。と、言いつつも、そうは言ってもあのガチガチの頃があったからこそ、今があるわけで、あのガチガチはわたしにとって必要なものだった。ガチガチから遊びが生まれた余裕のある感じへと成長したんだろうな、おそらく。
 あの頃はわたしは神様と真剣に向き合っていた。真剣とは文字のごとく、真の剣なのであって、下手したら大けがをする。もちろん切れる。あるいは真剣と言うのは言い過ぎなら、神様と取っ組み合いの相撲をしていたと言ってもいいかと思う。旧約聖書の創世記でヤコブが神様と取っ組み合いをしたように、あの頃のわたしは神様とつかみ合っていた。そして、離そうとはしなくて、ひたすら力のまま神様の力に対して、自分の持てる力、全力で対峙していた。で、今はと言うと、ゆる~く神様からの頭突きだったり、組もうとしてくるのをかわしつつ、自分自身がまるで闘牛士のように、ひらひらとかわしている。というか、神様と一度ぶつかってみて、押し合いへし合いをしてみて、それは無駄にエネルギーを使うことだと分かったものだから、無駄に組んだりしないんだ。
 この2つの生き方のどちらがしなやかで身軽かというのは言うまでもないことだろう。今のわたしの方が颯爽としていて、飄々とさえしている。でも、どっちがいいかって言うと両方ともそれぞれ長所、短所はある。その長所と短所をいろいろ考えた結果、今のゆる~い関わり方になったというわけで、どちらの方が優れているとか、どちらが劣っているとか、そういうことはない。今のわたしの神様との向き合い方を神様から逃げているとか、真剣に向き合おうとしないで避けている、などと言うことはもちろんできる。けれど、はっきりと言えることは、今の方が精神状態は落ち着いていて、平安かどうかと言えば限りなく平安に近いということ。あの頃は、今思うとあれはあれで意味はあったのだけれど、真剣に向き合いすぎて疲れてしまっていたように思う。教会でも信仰生活が長い人たちの様子を観察させてもらうと、無理のない範囲で神様だったり教会と付き合っているのだということを感じることができる。一方、キリスト教にも教派はいろいろあるのだけれど、激烈で激しい熱狂的なところは大抵、信徒が長続きせずに入れ替わり立ち替わりが激しい。やはり、信仰でも何でも短距離走の走り方で長距離走はできないんだ。長い距離を走るには無理のないようにペースを落として激しくなりすぎないようにする必要がある。
 わたしも試行錯誤の末、今のような信仰の形を取っている。とは言えども、熱狂的に熱烈に信仰できている人たちのパワーというかエネルギーを見て、いいなぁとか思うこともある。昔のわたしのような熱が、信仰の情熱がまたわいてこないものかなぁ、ともふとした時に思ってしまうこともある。でも、わたしはわたしで、彼らは彼ら。今のわたしにはそこまでの信仰における情熱はないし、そのために多くの自分の時間を割きたいといった思いも特にこれと言ってない。でも、それならそれでいいとわたしは納得している。何よりも、無理をしてまで信仰しても神様はきっと喜ばれない。だから、熱い思いで信仰したくなった時、また以前のような感じで宗教活動ができたらと思っている。やる気のない、情熱のない人間に、やる気を出せとか情熱をほとばしらせろ、とかそんなのは無理な話だし、言うまでもなく乱暴だ。わたしにはわたしの時がある。だから、それに逆らわずにやっていくのみだし、それこそが信仰的なあり方ではないかと思う。ま、あせらずやっていきますわな。
 変わっていく。時間の流れと共に人は変わっていくものなんだ。熱していたが冷めて、また熱する。で、また冷めて、それから熱さず、などと小綺麗にまとまるとは思えない。先のことは分からない。未来は分からないんだ。とにかく今できることを確実にやっていくこと。それしかできることはない。まるで別人のようなガチガチな昔書いた信仰エッセイを読みつつ、それによって今の自分の姿を知らされたわたしなのだ。
 変わっていくことは悪いことではない。そして、恐いことでもない。ただ、変わっていくものは変わっていくのだから仕方がない。
 昔の純粋でひたすらまっすぐだった自分。そして、少しゆるめになった今の自分。さらに、未来のわたしが今のわたしを過去のわたしとして見る時、何を思うのだろうか。楽しみなような、少し怖いような。「もっとしっかりと踏ん張れ」とか言うかもな(笑)。で、昔のわたし(ガチガチだった頃)が「そうだ、そうだ。真剣さが足りない」なんて言ったりして。でも、わたしがどんなに変わろうとも神様は変わらずにいつも共にいてくださる。それだけは変わらない。だから、何も問題はない。うん、そう思うな。



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