変わった贈り物

キリスト教エッセイ
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 人に物をあげるのは難しい。それは言うまでもないことだ。そのあげようとしている物を気に入ってくれるかどうか分からないし、要らないものだとかえって場所ばかりとらせてしまって邪魔になり、ちょっと……、という結末になる。
 そんな恐れを抱いていたわたしである。わたしがあげようとしているこれ、気に入ってもらえるかな? 気に入ってもらえなかったら、その時はその時だ。持ち帰ろう。
 わたしがあげた物。何だと思います? おそらく誰もこれに正答を与えることはできないだろう。当てた人はおそらく超能力者か予言者だろう。
 場所は教会で今日は元旦礼拝。2022年開始早々、そのプレゼント計画は遂行されたのだった。礼拝が終わる。さぁ、これからだ。これからが勝負(?)だ。テンションが上がってくるが不安も高まってくる。もしも、これを気に入ってもらえなかったらどうしよう。断られるんじゃないか。不安は高まる。でも、もう持ってきたのだ。持ってきてしまったのだ。だから、あげるのだ。
 ヒントその1、固い。その2、食べ物ではない。もうこの段階でチョコレートでないことはたしかだ。その3、小さい。
 ピンポーン(回答ランプ点灯)、単4乾電池。
 ブーッ。ヒントその4、生き物。
 ピンポーン(回答ランプ点灯)、アメンボ。
 ブーッ。いい線行っているけれど違う。ヒントその5、星さんと言えば?
 もうお分かりだろう。正解はモンシロチョウ。それも幼虫じゃなくてさなぎね。
 星さん、自由でしょう? 教会で未だかつてモンシロチョウのさなぎを贈ったり贈られたりした人っているのかな? 滅多にいないだろうねぇ。
 でも、これ喜んでくれるのかな。モンシロチョウのさなぎなんてプレゼントされて困らないかな。そうした懸念がどこまでもぐるぐると渦巻くのだ。もうこうなったら当たって砕けろだ(名言?)。
 で、勇気を振り絞って何人かにプレゼントしてみた。それも好意的に受け止めてくれそうな、喜んでくれそうな人に。
 そうしたら、彼らは本当に目を輝かせて喜んでくれた。あげてすぐに「どうしたらいい?」とは質問されたけれど。普通の人(と言うのも何だけど)はモンシロチョウのさなぎとか見たことがないようなのだ。今は自然も少なくなってきて、道ばたにモンシロチョウのさなぎがあるわけではない。そもそも、モンシロチョウの場合、キャベツの葉っぱの割合目立たないところにさなぎになるから、普通に生活しているだけではとてもお目にかかれないのだ。だから、彼らにとってみれば、さなぎから蝶になるということは理科で習って知っているけれど、実際にさなぎを目にしたことがほとんどない。まさに異文化のようなのだ。
 わたしも初めてモンシロチョウを育てた時にはさなぎってこうなるんだ、と教科書的なことを知っていたにせよ、とても新鮮で驚きに包まれたのだった。だから、彼らが子どものように目を輝かせたのももっともなことなのだ。
 あと3ヶ月もすれば春がやってくる。そうしたら、無事に行けばモンシチョウは蝶になるんだなぁ。やっぱり、モンシロチョウを育てる一番の醍醐味はさなぎから蝶になる変化だろう。だから、一番おいしいところを体験できる機会を彼らにプレゼントできたのだ。
 どうせ虫でしょ? んなもん育てて何になるの? 何か得でもするの?
 たしかに育てたところで金になるわけではない。何になる、と言われると答えに窮する。でもね、これは体験してみた人じゃないとわからないことなんだよ。モンシロチョウを育ててみた人じゃないと分からないことなんだよ。批判は重々承知だけれど、「やってみてから言ってくださいね」って言いたくなる。やってみたら、育ててみたらその素晴らしさに開眼することだろう。
 小中高でキャベツ畑でも大規模につくればいいのに。そう思う。それでモンシロチョウも育てるの。ダイコンなんかもいいな。で、カブラハバチ育てる。って結局害虫飼育じゃん(笑)。きっと生徒の情緒も安定してくるだろうと思うよ。
 話を戻して、不安に思って心配しながらの贈り物だったけれど、喜んでもらえて良かった。本当に良かった。
 たかが虫、されど虫。この虫を喜べるような素直で純粋な心を与えてくださった神様に感謝、感謝である。心に余裕がないと虫を贈られてもきっと喜べないよね。その余裕をも与えてくださった神様に感謝。虫を贈られて喜べるその心はとても美しいと思う。こうした小さなささやかなことをこれからも喜んでいけるように神様に祈り求めつつ、この1年ぼちぼち急がず焦らずにやっていきたい。
 以上、元日記す。

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