これでいいのだ

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「これでいい」。なかなかそう思えない時がある。過去を振り返って、本当にあれで良かったのだろうか。いや、もっとこうした方が良かったのではなかったかと反省しっぱなしでとにかく自分がやってきたことをそのまま肯定できない。
 わたしはアニメでしか天才バカボンを知らなくて、いつか原作の漫画を読んでみたいなと思いつつ、今日にまで至ってしまっている。漫画の内容はともかくとして、赤塚先生がたどり着いた真理は「これでいいのだ」の一言に尽きるのだろうか。
「これでいい」と思えるのなら何も苦労なんてしない。そう思えないからみんな過去のことで悩むんだ。そして、自分が決めたこと、決断したことに本当にこれで良かったのだろうかと悩むんだ。おっしゃることはもっともで、悩むなと言われてもそう簡単にはこれらのもつれを手放すことはできそうもない。
 そんな気が弱いわたしたちはどうしても誰かに「それでいい」と言ってもらいたくなる。いいと思うよ。それでいいと思うよ、と誰かに言ってほしいのだ。そして、自分がこれまで歩んできた人生の道のりやら何やらこれまでの決断を全肯定してほしいのだ。でも、逆に誰か(近しい人でもいいのだけれど)から自分の人生を全否定されたらどうだろうか。あなたの人生ダメだったと思うよ。本当、しょうもない生き様だよね、などと辛辣な言葉を投げ掛けられたらどうしたらいいのだろうか。ただその言葉に黙って従って、あぁ、わたしの人生ってやっぱりダメだったんだなって思わなければならないのだろうか。
 もしも世界中のすべての人々を敵に回して、批判を浴びるように突きつけられ、暗示がかかってもおかしくないくらい否定されたとしたら、それに一緒になって自分まで加わってしまうのだろうか。たしかにそれだけ人々から批判されるからには、きっとおそらく客観的に見てまずいことやしてはいけないことをしている、ということなのだろう。でも、それに自分まで加わってしまったら何だかやるせない。せめて自分だけはよしとしようではないか、とわたしには思えてくる。イエスさまと自分。たった二人。でも、この二人がわたしのことを深く深く理解しているし、理解できている。いや、自分よりも神様ならびにイエスさまの方が自分のことを熟知してくださっているんじゃないか、っていうのが本当のところだと思う。自分が気付いていない本当の気持ち、心の奥底に沈み込んでいるいわば封印されているかのような自分でも知らない本当の自分。そういったものも熟知してくださっているのだ。だから、こういう風に考えるなら、誰か他者の批判なんてただこちらの一面を切り取って判断しているだけで、本当の完璧な批判とは言えない。不完全で一面的な、そして独断と偏見に満ちたものでしかない。と言いつつも的確な批判もあるかもしれない。けれど、批判というものは悪い面や欠けている面にしか光が当たっていない。たとえば誰かが何か問題のあることをするとしよう。その人物は当然のことながら批判されてけなされて裁かれる。しかしながら、その人の行った問題行動だけを取り上げて、それだけ見れば全人的で誤りのない見識に至ることができるかと言えば、そういうことはないだろう。所詮と言ってしまうと言葉が悪いけれど、人間という存在は偏見から逃れることはできないのだ。仏教には正見という概念があるけれど、それだって怪しい。正しい見方。まぁ、そういうものもあるのかもしれない。でも、それだって偏見だろうとわたしは思う。偏見を超えている存在、それは全知全能であられる神様だけだとわたしは思う。
 インドの説話にこんな話があるんだけど、何人かの盲人が象(動物の象)の違う体の箇所をさわって、象というものはこういうものだと口々に主張する。象の鼻をさわった盲人と尻尾をさわった盲人と胴体をさわった門人、とみんな別々の同じ1頭の象の各部分をさわるのだ。
 何を言いたいかというと、わたしたちはたとえば、Aさんという人はこういう人だと自分の中で印象やイメージを持つ。優しい人だとか、頭のいい人だとか、性格のいい人だとかいろいろ思う。けれど、そうした印象やイメージはAさんの一部を映し出したものでしかない。わたしたちは他者を判断するけれど、その判断はその人の一部に光を当てたものでしかない、ということだ。だから、さわる場所が違えば、要するに光が当たって見えた場所が異なれば、当然印象や評価は変化してくる。
 だから、誰かが自分のことを批判してきたとしても、それはその人がわたしの一部を見て良くないと言っているだけなのだ。もちろん、良くないことをするのは良くないし、してはならないことはやってはだめだ。でも、わたしが言いたいのはそういうことではなくて、もしも仮にわたしたちが全知全能になったとしたら安直にこの人はいい人で、この人は悪い人、と裁けなくなるのではないか、ということだ。
 有限な情報処理しかできないわたしたちは少ない情報でこうだ、こうに違いないと決めつけがちだ。というか、全知には逆立ちをしてもなれないのだから、それが人間の限界であり、超えられない壁であると思う。だから、そういう意味でも人を批判する時にはその批判しようとするその人のことをしっかりと把握しましょう、と言うわけだ。情報収集をしっかりとして偏見にならないようにしましょう、と戒めるわけだ。
 でも、ここまでの話でお分かりの通り、人間はどんなに頑張ってもすべてを知ることはできないし、すべてが脳の中に入ったら脳がパンクしてしまうので、かなり雑な情報処理をせざるを得ないのだ。つまり、どんなに努めても偏見からは逃れられないのだ。
 とまぁ、そういうわけで、自分のことをよく知っているのは自分。そして、それ以上に知っているのが神様という構図が成り立つ。だったら神様の次に自分のことをよく知っている自分自身が自分のことを認めてあげなかったら一体全体かわいそうではないか。少なくとも24時間365日、肌身離さず(?)自分と一緒にいるのはやはり自分だ。夫婦や親子などの家族といえども、そこまで密着はしていないだろうし、明らかに自分には及ばない。
 精神科医の水島広子さんが人はそれでいいと思えた時に前に進んでいけるんじゃないか、みたいなことを書かれていて、本当にそうだなってわたしも思った。他者はいろいろ言うかもしれない。でも、自分は、自分だけは何があっても、たとえそれが良くないことだったとしても、それすらも包み込んで「これでいいのだ」と肯定してあげたい。もちろん倫理的に良くないことをしてしまったら反省しなければならない。しかし、それをしてしまった欠陥だらけとも見える自分をせめて自分だけはいたわるようにしてあげたい。それに神様はいつだって味方になってくれる。いいとか悪いとか、そんなせせこましい価値判断はしないで、善悪すらも包み込んでくださる。だから、その神様が自分のことを全力を挙げて肯定してくださっているのだから、その肯定してもらっている自分自身が自分のことを認めてあげなかったら神様に対して失礼じゃないかとさえわたしには思えてならないのだ。
「これでいいのだ」。これでは良くなったのかもしれない。もっと別の道や選択があってそれを選んでいた方が良かったのかもしれない。でも、これでいいのだ。どんなにあがいても過去は変えることができない。変えることができるもの。それは現在と未来だけで過去はどんなに変えさせてくださいと神様に懇願してもそれは無理だ。変えられないものについて悩むのではなくて、変えられるものについて、今と未来について考えていく。そして、「これでいいのだ」「これでよかったのだ」と言いながら思い残すことなく人生の終わりを迎えられたらと思うわたしなのだ。
 バカボンのパパはすごくいいことを言ってくれている。この「これでいいのだ」には自分の人生を全肯定する力強さがしっかりとある。いいこともそうではなかったことも、この言葉によってただただ無条件にキラキラと輝き出すから不思議だ。つまり、一切合切全部含めて自分の人生は「これでいいいのだ」という結論にたどり着く。
 くよくよしながらも、この言葉によってくよくよしないでやっていけたらなと思う。

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