うらやましいの?

いろいろエッセイ
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 わたしは今、後悔している。何を後悔しているかと言うと、テレビを見てしまったことをだ。
 普段、わたしはテレビをほとんど見ていない。が、ふと気が付いたら1時間ほどダラダラ、ダラダラと見てしまった。
 頭がマヒしたかのように刺激にさらされた脳はただいま疲労困憊中。いかん、いかんな。こうして書いているこの文章もいつもの冴えはなく、本当に自分でも何を書いているのか把握できていない。テレビに創造性を破壊されたわたしはこうして冴えもしない文章を連ねているわけだ。
 何だか自分がダメ人間のように思えてくる。何にもできていないんじゃないか。何にもやれていないんじゃないかって猛烈に自己肯定感が下降してくる。
 落ち着け、落ち着くんだ。テレビの中の人たちは優秀ないわばエリートだろ。そんな彼らと比較しても不幸なだけだよ。それに他者との比較は一番やっちゃいけないことじゃないか。上には上がいる。そして、上にもまた上がいる。だから、どこまでも競争していって比較していったら、どこまで行っても劣等感に苛まれるだけだよ。
 テレビでは中国人が日本の企業でIT関係の仕事をしていて、会社が終わってから同僚を連れて今はやりのガチ中華を食べていた。何か、その姿に猛烈に劣等感をわたしは感じたんだ。なぜかと言えば、わたしの収入ではそうしておそらく頻繁に外食するだけの経済力がないからだ。その中国人がとても満ち足りていて幸せそうに見えたんだ。うらやましいとは思わなかったけれど、それなりの収入を得て、安定した責任ある仕事にも就けていて何だかとても幸せそうだった。一方、わたしは……。と、とても自分がみじめに思えてきたよ。わたしだって専門職について安定した仕事をして、ゆとりのある生活をしたいよ、なんて思い始めてきたからあら不思議。働きたくなかったんじゃないの? あらまぁ、星さんたらすぐに影響されるんだから。
 改めて問う。その中国人の彼は本当に幸せなのだろうか? もちろん彼が自分を幸せだなぁとしみじみと思えるのなら別にそれでいい。でも、もしもわたしが彼の立場になったとしたらきっと責任におしつぶされそうな苦しい展開になって、きっと片時も気が休まらないだろうなぁって今、冷静になってみて思う。
 わたしの幸せ。わたしが幸せだと思うのって働くことなのかい? 仕事をすることなのかい? わたしは世間一般で言うところの仕事をしたことがないから、仕事について正しい評価や判断は下せないけれど、わたしは仕事をするために生まれてきたわけじゃない。仕事をしてその結果、社会に多大な貢献をするのは素晴らしい。それは認める。大人のたしなみとしてもそれはそれでいいとは思う。でも、わたしが求めているものっていうのは最近では静かな安らぎなんだ。学ぶことも好きで勉強は楽しい。でも、生活を犠牲にして身を粉にしてまで働いたり勉強したりすることに安らぎを見出すことはできないな。
 彼は彼。わたしはわたし。価値観も何に幸せを見出すかも違う。だから、別にわたしが無理して背伸びして彼のようになろうとすることもないし、その必要もない。それよりもわたしが本当にやりたいこととか、安らぎを覚えることをやっていくこと。そのことの方が重要なんじゃないか。画一的な一つのあり方にこだわって自分を無理にその型に押し込めようとするのではなくて、自分に合った生き方をしていくこと。その方が無理がないし、続いていくだろうし、人生の満足度だって上がっていくことだろう。
 一流企業に入社してバリバリ仕事をして稼いで責任ある立場で専門的な仕事をしていく。それもよし。一方で、就職すらせず、大学すら行かずの人生だってよし。少なくとも他の人に危害を加えたり迷惑をかけたりしてないんだから、堂々と胸を張っていいと思うんだ(障害年金とか生活保護で生きていくという生き方が迷惑をかけていると言うのならそんなこと言う人は鬼だな。血も涙もないよ)。どっちが上とか下とかそんなことはそもそもない。上下(うえした)なんてない。
 トップランナーは輝いて、光って見える。でもね、彼らには彼らにしか分からない苦労や悩みがあるんだと思う。お釈迦様は言った。人生は苦だってね。どんなに成功している人だって、どんなにうまくいっていない人だって同じように、本質的には苦なんだってね。そりゃそうだろう。成功したらそこから下降したり転落したりするのが怖くなってくるし、競争相手は次から次にタケノコが出てくるかのように現れてくる。そして、その競争に自分の立場を守るためには勝たなければならない。さらには、お金をたくさんもらえる仕事には尋常ではないほどの責任がつきまとってくる。少しのミスで甚大な被害や損失が起きるから手を抜けないし、失敗することが許されない状況だって多いことだろう。まさに戦場。やるかやられるか。食うか食われるか。うーむ、平安とは程遠くなってきたな。
 だから、そういう意味でももしかしたら何事もほどほど、中庸が一番いいのかもしれない。可もなく不可もなく、ほどほど。いい加減。適当って言葉はとてもいい言葉じゃないですか。
 さっきの中国人の彼の話で言えば、彼にはおそらく上しか見えていないだろうな。キャリアアップして所得を増やして、もっと今よりもクリエイティブで責任ある仕事を任されて、みたいなことしか考えることができていないだろうなって思う。それって欲だよ。別に欲が悪いわけじゃない。それに執着してしまうのが良くないんだ。欲っていうのはね。その欲望をかなえたり実現させることに執着してしまう時、それに付随するかのように苦しみがやってくる。執着は仏教的に言うまでもなく苦しいんだ。
 自己実現ってさ、必ずどこかで行き詰まるよね。どこかでもう無理ってところが遅かれ早かれ出てくる。壁と言ってもいい。限界とも言える。そうなった時にその欲望にしがみつき続けるのも一考だけれど、そもそもそれを手放した方が手っ取り早いんじゃないかなって思う。だって、もう限界なんでしょう? もう無理なんでしょう? その無理を、限界を突破したところに新しい世界が待ってるんだ、って体育会系ですかい。その自己実現を、その欲望を修正するなりして、もっと現実的なものへと変えていく。そういったことをしなければやはり人間はもたないと思うなぁ。
 わたしにはわたしの生き方があり道がある。だから、中国人の彼のようにならなくてもいい。でもね、本当に彼のようになりたくなったらなってもいいんだよ、っていうくらいの余地は残しておいてもいいと思う。人間は変わっていく存在だからね。少なくとも今のわたしは彼のように心の底からなりたいとは思えないし(テレビ番組で取り上げられた彼の輝きには一瞬翻弄されかけたけれど)、彼のようになることが平安への道だとは思えない。ただ、もう少しお金がほしいとは正直なところ思うけどね。
 人は一人ひとり違う。だから、100人いれば100通りの生き方があるはずなんだ。それを社会に容認されている窮屈な型に無理矢理あてはめて、それ以外の生き方はないんだと思ってしまう。それって何だか自分の個性や特性を無視している生き方のようで、自分がかわいそうじゃないかって思えてくるんだ。たしかに世間が認めている生き方にはそれなりに多大なメリットはある。そうした生き方が奨励されているわけだから、それをやればリターンが大きく得られるようにこの社会は設計されている。たとえば東大とか一流企業とかは言うまでもないだろう。でも、そうした人生のレールが、いわば既成の生き方が自分に合わないのだとしたらもう合わせなくてもいいんじゃないかって思う。だって合わないんだから。それでは無理なわけだし、幸せを感じることだってできないんだから。
 知人に一流大学卒で一流企業に入った人がいるんだけれど、その人がいつも言うことは「仕事がきついからもうやめたい」。だったらやめればいいじゃん、と喉元まで言葉がきているんだけれど、それを言っちゃあお終ぇよ、てなわけですな。
 その知人と職なしの星さん、どっちが幸せかってなかなか難問だな。ま、どちらも人生は苦だってことで、程度の差こそあれ両方苦しいのかもしれないな。いや、どうなっても苦しいことに変わりはないのかもしれないな。悩みの内容は違うけどね、もちろん。
 隣の芝は青く見える。でも、自分のうちの芝だって青々としてるじゃないですか。自分だって満更捨てたもんじゃないのよ、てなことを忘れずにやっていけばあるものや置かれているこの場所に感謝できるようになるのかな。足るを知るだね、まさに。
 目を閉じて自分の体と心の声を聞いて、自分が本当に求めているもの、必要としているものを静かに感じ取っていけたらと思う星さんなのだ。欲望のままに突き進むとろくなことがない。後から猛烈な後悔に襲われること間違いなしだろうから、十分静かな心で吟味して何をやっていくか、そして何をやらないようにするか検討していきたいと思う。ってクリスチャンらしくもないことばかり言っている星ではありますが(神様からの声は無視ですかい?)、ま、なるようになるさ。っておいおい。そんなんでいいのかよ。ま、案ずるより横山やすしですから(笑)。やすし。以上。

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