ふるさとの言葉

いろいろエッセイ
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 ふるさとの言葉。それは懐かしいものであり、自分が故郷へ帰ってきたことを実感させてくれるものでもある。
 そんなふるさとの言葉にわたしは憧れる。いいなぁ。そういう言葉があったらいいのに。え? 星さんにはふるさとの言葉がないの? わたしは生まれも育ちも静岡だがわたしが使える言葉は標準語だけだ。いわば、東京弁の標準語がふるさとの言葉なのである。
 よくわたしはきれいな標準語を使いますね、って言われる。なまりとか異なるアクセントとかそういったものがほとんどないのだ。だから、わたしは標準語一色みたいな人間で、自分では何て面白味がないのだろうと思っている。
 自分の言葉について考えさせられたのは、そう、宮崎で大学生活を送っていた頃のことだったかと思う。宮崎は言うまでもなく九州で、大学キャンパス内では博多弁から何やらとにかく九州の言葉が飛び交っていた。まぁ、九州に行けばみんな九州の言葉を使っているのだ。
 わたしはそんな中、一人疎外感を感じていた。学校の中で一人だけ東京言葉を使っている自分が何だか馴染めていないような感じがしてきていたのだ。
 が、宮崎の人たちはどうやらわたしの美しい(?)標準語がうらやましいらしい。事あるごとに彼らは東京へ行きたいとか、静岡って都会なんでしょ?、とか言う。そして、自分の、標準語からしたらなまっている言葉を嫌悪まではいかないけれど、田舎くさいものとして卑下していたのだ。そんなに標準語が使えるっていいもんなのかね、とわたしはそれを聞きながら思ったものだが、どうやら彼らは本気でそう思っているのだ。
 しかし、わたしからしたら彼らの言葉の方こそうらやましかった。自分のふるさとの言葉があることがどれだけ素晴らしいことか、と強く宮崎で暮らしながら思ったのだった。まぁ、わたしのふるさとの言葉は標準語で、それがふるさとってことだけど、わたしはどこか寂しかった。
 彼らのようにその地域だけでしか通じないような言葉で話がしたい。と思ったのは宮崎にいたころに、薬局でこんなことがあったからだ。それは何やら高齢の腰の曲がった背の低いおばあさんがレジで店の人(おそらく薬剤師か登録販売者)と話をしている。わたしは割合近いところからそのやり取りを聞いていたのだけれど、わたしには外国語のようでさっぱり理解できない。その店の人は割合若い感じの女性だったけれど、的確にその九州のわたしには何弁なのかは分からない言葉でそのおばあさんと会話をしていたのだ。それを見ていたらいいなぁとうらやましくなる。わたしには標準語しかなくて、それしか話せなくて何て貧しいのだろう。こういうあったかい地方の言葉を話せるのって本当、うらやましいよ。
 このような話は地方出身で自分の言葉にコンプレックスを抱えている人にとってはないものねだりのように見えることだろう。標準語が何の苦労もなく話せるなんてそれこそうらやましいよ、と思うかもしれない。もしかすると、いや、しなくてもお互いないものねだりなのかもしれない。でも、わたしはそうしたふるさとの言葉を持っている人がうらやましいし、自分にそうした言葉がないことをどことなく寂しく思っているのだ。
 だから、今この文章を読んでくださっている方で自分の言葉にコンプレックスをお持ちだという方がいましたら、こういうことを言うのも何だけどその言葉を大切にしてください、って心から言いたい。その言葉は宝物なんですから、と。
 でも、わたしにだって立派な標準語というふるさとの言葉があるのだから、それを大切にしていけたらと心を改めた次第である。自分が持っていないものをとやかく言っても仕方がない。それよりも今、自分が持っているものを大切にするようにしたいなって思い直したんだ。
 そう考えれば、標準語という前にわたしは日本語ができるのだ。それって大きなことだと思う。外国の方で日本のアニメが好きで好きで仕方がない、とか日本の俳句や短歌が好きで仕方がない、はたまたドラえもんが大好きだという人がいると思うのだけれど、彼らはどうして自分が日本人として日本に生まれてこうした文化を母国語として享受できなかったのだろうと思っているに違いないのだ。日本語を母国語としてこれらの文化にふれようと思えばそれができること、または芥川や太宰や漱石を原典の日本語で読めること。それってとても幸せなことだ。
 また話を少し戻して、わたしが標準語しか話せない、使えないというのは標準語のネイティブなのだから文章を書く上で有利にはたらくことがあるかもしれない。そうか、自分の言葉が日本語の標準語しかないと落ち込む必要はなかったんだ。わたしにはわたしとしての強みがあって、それはそれで良かったんだ、と目の前が明るく開けてきたように思えてきた星である。
 それに地方の言葉を学びたいのなら方言辞典とかあるから、それを外国語を学ぶような形にはなってしまうけれど、学ぼうと思えばいくらでも貪欲に学ぶことができる。そうか、道は開けているんだ。コテコテの大阪弁で話す外国人とかいるわけだし、これからのやり方次第でいくらでも道はあるわけだな。
 わたしは自分にはふるさとの言葉がないと嘆いていた。けれど、あったじゃない。標準語というふるさとの言葉が。わたしの標準語コンプレックスは克服するのが難しそうだけれど、それでもこれから自分のこのふるさとの言葉を少しでも好きになっていけたらいいなと思っている。
 わたしもふるさとの言葉を大事にしていきたいと思うので、あなたもぜひ自分の言葉を愛おしみ育んでいっていただけたらと思う。そんなわけで今日もわたしは流暢な標準語を少しつっかえながら(吃音なので)話している。

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