自己肯定感と優しい眼差しで見るということ

いろいろエッセイ
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 もう何年も前に買って、それから読んでいなかった自己肯定感についての本をあらためて読んでみて、これはわたしのことを言っている、とものすごくドンピシャだった。
 自己肯定感が低い人は、こういう風になると書いてあることがわたしにことごとく当てはまる。
 ネットに限らず、この社会の様子を眺めていて思うことは、大抵の問題が自己肯定感と関係があるということだ。この自分をありのままでいいと思える、価値があると思えるかどうかという一見素朴なことが、ありとあらゆる問題の根っこにある。そんな風に見えてきた。
 わたしを含めてみんなそうだと思うのだけれど、何か毎日生きていく上で、どれだけ自分の価値を上げることができるのか、そしてそれをどれだけ多くの人たちに認めさせることができるか、といったことに多くの人が躍起になっていると思うのだ。
 わたしは正直なところを言うと、今のままでいいとは思えないし、思っていない。もっとこうあらねば、こうありたいというのがある。そして、そのように自分の価値を高めていかなかれば、誰からも愛されないと思っている。今のわたしは働いていなくて障害年金で暮らしているわけであって、社会のお荷物だ。税金だって納めているのは消費税と国民健康保険の税金くらいなもので、ほとんど何も社会だったり国に貢献できていない。また、結婚もしておらず子どももいないから日本の少子化に荷担してしまっている。日本の未来を危うくしているのだ。
 このようにありのままではダメ。もっと頑張らなければダメ。何かができてこそ人としての価値があるわけで、何もできないようなら無価値。そんなキリスト教のプロテスタントのような業績主義を身にまとっているわたしは、こんな調子で自分に「お前はダメだ」とダメ出しをしている。
 以前、このブログでまだコメント欄が機能していた頃、ひたすらわたしに「働け、働け」と言ってきたYは今頃どうしているのだろうか。彼は今も仕事をしているのだろうか。そして、達者にやっているのだろうか。
 彼が理解できなかったもの。それは「生存は労働である」という言葉だった。彼にはそれが分からない。何で生きているだけで働いていることになるのか。働くっていうのは実際に仕事をして働いていることだよ、と彼はおそらく思うのだろう。
 でも、毎日生きていることが辛くて、時々とか頻繁に死にたくなるような精神障害がある人にとっては生きるということ自体がもう労働ではないかとわたしは思うのだ。
 それはともかくとして、わたしは今まで自分の価値というものを探してきたのだと思う。自分を肯定しようとその価値を上げようと必死になってやってきた。
 何かができるからとか何かにおいて優れているから、というのは条件付きの承認であって、それができなくなったりして他の人よりも優れている状態が失われてしまったら途端にその人の価値は下がってしまう。たとえば、仕事一筋で仕事の業績が自分の価値だと思ってきて、結果を出すことに自分の全てを捧げていた人が大病をしたり大怪我をしたりして仕事ができなくなり、一日中何もせずにベッドに寝ているだけの生活になったらその人はきっと絶望すると思う。たしかに何かができることや何かにおいて優れているという価値があることにはある。けれども、その価値基準というのはもろいもので、それが失われるやいなや、それと連動するかのように、その人の価値も下がったりなくなってしまう。いわば自分の株価が業績次第で上がりもすれば下がりもする、そんな不安定な状態だと言える。
 この考え方に従っていくと、生産性の高い人間が価値があって、それが低かったり、ない人間には価値がないからそういう人は単なるお荷物だ、ということになる。そして、それが排除へとつながっていき、「お前は何もできないのだから生きる価値なんてないよ」という宣告を下すことにもなっていく。
 でも、本当はそんな価値がどうこうというのは観念上のことでしかなくて価値なんてないんだ。人間が頭で考えている、拵えているだけのものでしかないんだ。ただ、わたしがいて、あなたがいて、またまた別の誰かがいて、多くの人たちがいる。それだけのことなんだ、というように考えてみたらどうかといったことを少し前の記事で書いたかと思う。そのように価値自体の存在を否定する道もあるのだけれど、もしも仮に価値が実在するものだと考えるとしたら、どのような行き方ができるだろうか。
 わたしは人間の価値には2種類あると思う。一つは、何ができるか、何かにおいて優れているか、そして実際に何を成し遂げてきたかという価値。もう一つは、その人がこれまでその人なりの生まれつきの資質や能力や置かれた環境などのいろいろな条件のもと、懸命に生きてきたという、ただそのことの価値。
 もっとこの社会で「その人がこれまで懸命に生きてきた」ということの価値を認めてもいいのではないかとわたしは思う。たとえ、何かができなくても、何も優れたところがなくても、何の業績を残せていなくても、いや、人格や行動に問題があって尊敬できるような人とは言えなくても、その人が今日までやってきた、生きてきたというただそのことについては「よくやってこられましたね」「頑張ってこられましたね」と温かい眼差しで眺めてもいいのではないかと思うのだ。
 そういった態度や視線がなくなって、何ができるか、何に優れているか、何を成し遂げたかだけになってしまうとものすごく息苦しくなる。この人は優れた人だから、みんなに利益を生み出せる人だから、人としての価値が高い。それと比べたらあの人なんて、てんで優れたところなんてなくて、みんなに利益をもたらすどころか迷惑ばかりかけてお荷物でしかないから、いなくなった方がいい。そんな殺伐とした空気で果たして仲良くやっていけるだろうか。楽しく過ごしていけるだろうか。
 わたしは今日まで生きてきた。いろいろと大変なことはあったけれど、それなりに何とかここまでやってきた。ここまでやってこれた、ということはもっと言うなら、今日までの間に苦しくて自ら命を絶つこともできたのに、それをしないで今日まで生きながらえてきたということ。誰かに言わせれば、わたしのことを「あなたよりもわたしの方がもっと大変な人生で苦労してきた。あなたなんて楽してぬるま湯に浸かってきただけ。そんなことを偉そうに言う資格なんてない」とも言えるだろう。でも、不幸や苦労を比べ合っても意味がないし仕方がない。みんな程度の差はあっても、それでもその人その人、懸命に生きてきた。それだけは事実ではないかと思う。楽して生きてきただけのように見える人やここまで何もかもうまくいっているようにしか見えない人であっても、その人にしか分からない苦労はあったはずだ。
 そんな風に思えたら急に世界が違った感じで見えてきた。違う景色として立ち現れてきた。好き放題やっている金に汚い政治家も嫌な奴でしかない毒舌家もありとあらゆる嫌だ、嫌いだと思っていた人たちが急にあどけない幼児のように見えてくる。その子は頑張っている。悪態をつきながらも懸命に生きようとしていて、これまでも生きてきた。だったらそれでいいじゃないか(もちろん問題のある行動そのものは容認できないけれど)。
 みんな頑張っていて、頑張ってきて、今日までやってきた。それをお互い優しい眼差しで見ることができるような社会になったらどれだけ居心地が良くなることかと思う。そして、そのみんなの中にはこのわたしも含まれている。そんな風にわたし自身のことも見ていけたらいいなと思う次第。

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