13週間聖書通読 12月19~21日の記録 マタ17~19章、出1~11章

聖書通読
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 マタイによる福音書も中間地点を超えてクライマックスまであともう少し。イエスさまの言行録がこれでもかと繰り広げられる。イエスさまの人となりにふれることができる時間はとても幸せで至福の時そのもの。今日もマタイによる福音書から神様の声を聴いていけたらと思う。また、旧約は出エジプト記に入った。50章の長かった創世記もあっという間に終わり、出エジプトの出来事を記した出エジプト記の物語はどのように展開していくのか。ざっくりとしたところは既読なので分かっているけれど、それでも初めて読むかのように新鮮な気持ちで読めたらと思う。
 さて、新約のマタイ17章から読んでいきたい。
 イエスさまはおもな弟子の3人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)だけを連れて高い山に登られた。そうしたらイエスさまが光り輝くばかりに姿を変えられた。顔が太陽のように、服が光のように白くなられたのだ。と弟子たちがイエスさまを見ると、何とあの偉大なモーセとエリヤが現れていて一緒に話をされているではないか。で、ペトロがおそらく気持ちを高揚させていたのだろう。イエスさまにこの3人のために仮小屋を3つ建てましょう、と提案する。そうしていると光り輝く雲が彼らを覆って、その雲の中から声が聞こえる。弟子たちはそれはそれはめちゃくちゃ恐かった。これはおそらく神の声だったからだろう。父なる神の声はやはり強烈だ。弟子たちは恐怖のあまりひれ伏した。ひれ伏すって尋常じゃないよ。と、イエスさまが優しく弟子たちに手でふれられて「起きなさい。恐れることはない」と言われる。で、弟子たちがイエスさまの方を見るとモーセもエリヤもいなくなっている! イエスさまが一人おられるのみ。まさに奇跡体験。
 まずエリヤが来るはずだ、と律法学者は言っていると弟子たち。そのエリヤとは洗礼者ヨハネのことだったのだとイエスさまは明かされたのだった。
 悪霊にとりつかれた子どもを治せなかった弟子たち。理由をイエスさまに尋ねると「信仰が薄いからだ」と一喝。イエスさまによればからし種一粒ほどの信仰があれば山を移動させることもできるとのこと。わたしはイエスさまを信じているけれど、これは無理じゃないかなぁって思ってしまう。わたしが山を動かせないのはからし種一粒ほどの信仰さえもないから? もしかするとそのレベルにまで到達している信仰者はいまだかつて人類に現れたことがないのかもしれないな。でなかったら山が動きまくって地図が変わりまくりだよ。
 神殿税を集める人が来た時、イエスさまは神殿の税金なのだから、神の子どもたち、つまり自分たちは納めなくてもいいんじゃないかみたいなことを言い始められる。でも、集める人たちをつまずかせかないように釣った魚の口にある銀貨を納めさせたのだった。
 弟子たちはかなり個性的で自己主張が激しくてイエスさまに「天国で誰が一番偉いのか?」などと質問する。イエスさまはそれに答えられた。「自分を低くして子供のようになる人が天国で一番偉い」と。弟子たちは呆気にとられただろうなぁ。知恵のあるやつが一番偉いとか、背が高い奴が一番偉い、力のある奴が一番偉いなどとは言わないで、そういったこととはかけ離れた人が一番偉いのだとズバっと言われるイエスさま。弟子たちは誰もこの答えを予想していなかっただろう。どんでん返しのイエスさまのお答え。クールだなって思った。
 100匹の羊のうち1匹がいなくなって迷ってしまった。そんな時、ドライに切り捨てるなら1匹くらい別にいなくなっても仕方がないだろう。それよりも今手元にある99匹の方で良しとしよう、などと考えてしまうのではないか。しかし、イエスさまは違う。99匹を山に残しておいてでも迷っていなくなった1匹を探しに行くのだ。そして、見つかったら迷わずにいた99匹よりもその1匹が見つかったことを喜ぶ。つまり、1匹たりとも失いたくないという気持ちであり姿勢なのだ。でもなぁ、わたしは信仰生活していて思うのだけれどおそらく99匹の方にいるだろうわたしのことももっと気を遣ってほしいなぁとも思うわけですよ。たしかに迷っている羊も大事だけど、迷っていない羊も大事でしょ。そんなことをこの箇所を読みながら考えたのだった。
 仲間を赦さない家来のたとえは厳しいなぁ。自分が罪を誰かから犯されたら何回まで赦すべきかと問うペトロにイエスさまは「七の七十倍までも赦しなさい」と命じられる。そして、核心をつくたとえ話へと移っていく。1万タラントン借金している家来が王に懇願したらその王がその家来の借金を帳消しにした。ところが、その家来は自分にわずかばかりの借金をしている人を捕まえて支払うまでと牢に入れたのだ。そして、それが王に報告されて1万タラントンを帳消しにしてもらった家来は王から咎を受けたのだった。その家来は借金を返済するまでと牢屋送りに。王の「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」という言葉が読み手であるわたしの心を揺さぶってくる。わたしが神様から莫大な罪を赦されているのだから、自分に犯される他者からの罪は大目に見て赦さなければならないのだなぁという教訓である。でも、それが分かっているのだけれど難しいのよ。人を赦す。これは一筋縄では行かないことなのだ。でも、赦そうとする。それをやるかやらないかでは決定的に違うと思う。
 離縁について教えられるイエスさま。この教えによってどれだけ多くの人が苦しんできたことだろうか。たしかにこれはこれとして、イエスさまの言われることは理解できる。要するに結婚とは神が結び合わせてくださったものだから人が離してはならないということなのだ。ここは難しいところなのだけれど、じゃあ離婚してはいけないの? 離婚なんて日本ではたしか3組に1組の割合で起こっているよ。それを断罪する。イエスさま、このことについては同意できません。が、ということは結婚する時は本当にそれが神様のみこころに沿うものなのかしっかりと確認しなさい。それが確認できなかったら安易に結婚してはならない。そんな結婚慎重論が登場するような、つまりそういうことなのですか、イエスさま。そういうことはイエスさまおっしゃられてはいないけれど、つまりはそういうことになるよ。いい加減な気持ちで結婚するな、というそれは厳しい教えになる。でも、キリスト教において結婚とはそれくらい厳粛で神聖なものなのだ。それをイエスさまは言おうとされているんじゃないかな。
 最後に一人の金持ちの青年登場。青年はイエスさまに「永遠の命を得るにはどんな善いことをしたらいいのですか?」と尋ねる。イエスさまはそれに対して掟を守るように言う。青年は「そういうことは守ってきた」らしい。こう言い切ってしまえるところがこの青年の未熟さではないかと思う。イエスさまは「完全になりたいのなら、持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」と言われた。この「完全に」というところがポイントではないだろうか。イエスさまがさきに言われた掟を完全に守るには、つまり隣人を自分のように愛する。それも完全に愛するには自分の財産をすべて隣人に捧げる必要があるのだ。それが「完全に」という真意ではないだろうかとわたしは思う。で、青年は立ち去った。それも悲しみながら。やっぱり無理だったんだよな。わたしはこの青年がその後どうなったかが気になる。イエスさまと直に出会ったが従えなかったこの青年がそれからどうなったかが。この青年はイエスさまが生きておられた時代の人だから今はもう死んでいるわけだけど、救われていてほしいな。それがわたしのささやかな願いだ。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいとしても彼には救われてほしい。

 さて、では旧約聖書の出エジプト記を読んでいきたいと思う。
 ヤコブ一族がエジプトへ下って、つまりイスラエルの民がエジプトに移住したところで創世記は幕を閉じた。出エジプト記はそれからのいわば続編とでも言うべき物語であって、エジプトに寄留しているイスラエルの民がそれからどうなったかということが書かれているのだ。
 ヨセフもその兄弟たちも、それからその世代の人々もみんな死んだ。だが、イスラエルの民はおびただしく数を増していき、それはそれは栄えていった。子どもがたくさん生まれてヤコブの子孫たちが国中に溢れるほどになったのだ。で、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトを支配するようになり、もちろんヨセフたち、ヤコブたちを知らないから、イスラエルの民は単に脅威でしかない。イスラエル人がこれ以上増えたら自分たちが何らかの形で滅ぼされてしまうかもしれない。敵と組まれたらきっとこれは滅ぼされるに違いない。そんなことをその王は考えるようになった。
 それでどうしたかと言えば、王はイスラエル人たちの上に強制労働の監督を置いて重労働に服させるようしたのだ。つまり、イスラエルの民を奴隷としたのだ。そして、過酷な労働をさせたのだった。イスラエルの人々は呻いた。まさに苦難の時である。だが、そうして虐待されればされるほどイスラエルの民は増え広がっていった。で、エジプト人はますます増えていくばかりのイスラエルの民を嫌悪するのだった。
 さらにイスラエル人を増やさないようにするためには、小さいうちに殺してしまえばいい。そう考えたエジプト王は生まれた男児はすべてナイル川に放り込め。女児は生かしておけ、という命令を下したのだった。
 もちろん助産婦たちにもイスラエル人の男児の殺害命令をくだす。が、助産婦のプアとシフラは神を畏れていたのでその命令に従わない。さらに王に詰問されても、飄々と言い訳をしてかわす。たくましい女性たちだなぁ。そんな彼女たちを神様は祝福されて子宝を与えられたのだった。
 そんな男児殺害命令さえも下されている中、後にモーセと命名される男の子は生を授かるのであった。レビの家の出の両親から生まれた彼は、母親から見てとてもかわいかったらしく、三ヶ月の間隠して育てられていた。が、隠しきれなくなったのでパピルスの籠に入れてナイル河畔の葦の茂みの間に置かれたのだった。誰か拾って育ててくれ、ということらしい。
 その様子をモーセの姉が見ていた。どうなるんだろう、と。と、そこへファラオの王女が水浴びにやってきて、その赤ん坊が入っている籠を見つける。その子は泣いていた。王女は不憫に思った。そこへモーセの姉がつかつかとやってきたのだろう。で、こう言う。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」うまいなぁ。で、自分の母親を連れてくる。王女は彼女に手当を出すらしい。これはうまい話だ。そして、その子(モーセ)が大きくなると母は王女のもとへと連れて行ったのだった。モーセという名前はその王女がつけたのだ。王女の子となったモーセはすくすくと育っていく。
 そして、モーセが成人したころのことだが、イスラエル人が重労働に服しているのを彼は見る。そして、エジプト人が同胞を「打っている」とあったから、棒か鞭で打っていたのだろう。その様子を見て我慢ならなかったモーセはそのエジプト人を殺してしまう。イスラエルの民を神のもと導き上ったモーセが殺人者だったというのはなかなか衝撃的ではないだろうか。いわゆる前科者だったのだ。もちろんモーセはなかなか狡猾で捕まって前科者になることはない。エジプト王ファラオはモーセを殺そうと探し回る。ファラオからしてみたら同胞を殺した者だ。これは重罪であることは間違いない。
「もうエジプトにはいられない。」そう思ったモーセはミディアン地方に逃亡する。そして、井戸の傍らに腰を下ろす。そこでモーセはミディアンの祭司のレウエルの娘たちを妨害してくる男たちから追い払って助け出し家畜に水を飲ませられるようにしたのだった。
 モーセはレウエルのもとにとどまることを決意する。レウエルは娘のツィポラをモーセと結婚させる。子どもも生まれてそれなりにモーセは幸せな生活を送っていたのだろう。そんなこんなで長い年月が気がついたら過ぎていたのだった。
 あるとき、羊の群れを飼っていたモーセは羊を追って行き神の山ホレブにたどりつく。すると燃え尽きない柴が目の前に現れる。モーセはなぜ燃え尽きないのか気になり見届けたくなる。
 と、そこで神が柴の間からモーセに声を掛けられた。モーセにとっては神からのいわばファーストコンタクトみたいなものだっただろう。モーセは神を見ることを恐れて顔を覆う。神様は言われる。何でもエジプトにいるイスラエルの民の苦しみを神様はご覧になられていたそうで、エジプト人の手から彼らを救い出すとのこと。そして導き出して救い出された暁には素晴らしい土地を用意してくださる、とのこと。乳と蜜の流れる土地が彼らを待っているのだ。
 そして、神様はモーセにイスラエルの民をエジプトから連れ出すという大役を引き受けるように要請するのだった。が、モーセはそんなことは無理だ、みたいなことを神様に言う。さらには、何で自分がそれをやらなきゃならないんだ、みたいなことも言う。挙げ句の果てには誰か他の人にしてください、と言う始末。神様もそんなモーセに怒る。モーセが舌が重い者であったとしても、アロンという雄弁な兄がいるのだから、お前にはできるはずだ。神様はそんなことをモーセに言われる。杖もあるのだから、とモーセをとにかく励ます。
 神様はさらにモーセにこう言われた。「エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」もうエジプトに帰っても大丈夫。神様からも大丈夫とのお墨付きが得られたのである。モーセは妻子と共にエジプトへ帰って行った。神の杖も携えて。
 そうしてエジプトへ帰ったモーセはファラオとの交渉を始める。すべてはイスラエルの民をエジプトから去らせて荒れ野で主のための祭りを行うためなのだ。が、ファラオに交渉するや否や、ファラオはイスラエルの民に課していた強制労働をさらに過酷なものにする。今まではれんがをつくるためのわらを用意していたのに、これからはそれをも自分で集めよ、と言うのだ。で、それだけ労働が増えているのに同じ量のれんがを仕上げろ、と言う。無茶ぶりすごいな、これは。泣き言を言い始めて要求し出した相手に、さらに負荷をかける。いわゆるスパルタ式ですな。こうなってはイスラエル人はたまらない。イスラエルの人々の下役の人たちはモーセとアロンに「お前らが余計なことをファラオに言ったばっかりに窮地に陥ってしまったじゃないか」みたいなことを言うのだった。「我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」と下役たち。モーセは神様にこのことを訴える。なぜイスラエルに災いを下されるのですか、と詰め寄るモーセ。神様はファラオに災いを下すから見ていなさい。ファラオはイスラエルの民をエジプトの国から追い出すから安心していなさい、といったことをまるで慰めか何かのようにモーセに言われるのだった。ファラオに交渉をしていたころ、モーセ80歳にアロン83歳とおじいちゃん(?)兄弟コンビはイスラエルの出エジプトのために奔走したのだった。
 そして、ファラオにイスラエルの民をエジプトから去らせよ、と迫るモーセ。が、ファラオはこれを聞き入れようとはしない。となったら実力行使しかない。神様からの災いをエジプトに下すのだ。血の災い、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、疫病の災い、はれ物の災い、雹(ひょう)の災い、いなごの災い、暗闇の災い、そして最後の災い。この10の災いがエジプトに下されたわけだが、ファラオは屈したかのように見えながら、それでもまた心をかたくなにして結局イスラエルを去らせようとはしなかったのだった。災いは実に多種にわたりバラエティーに富んでいるが、その中でも最後の「最後の災い」が一番強烈だろう。なぜなら、エジプトの国の人も含めたすべての初子が死ぬからだ。殺されるからだ。
 しかしながら、ここで気になることが一点ばかりある。それはこのファラオの心をかたくなにしているのは神様であられるという記述だ。神様が御自分でファラオの心をかたくなにされて、それでエジプトに災いを何度も下されている。神様がもしもファラオの心を好きなように動かされていた、操られていたのだとしたら、神様のこのなされたことはなかなか酷いことだとわたしは思うのだ。ファラオの心を最初から神様が変えられて、イスラエルの民をエジプトから去らせていれば、別に災いなんか下す必要なんてそもそもなかったことだろう。何のための災いなのだろう。わたしの中でこれが今一つ消化できていない。納得できないというか。もしも、この災いを下された理由が神様の御自分の栄光を人々に示されるためだとしたら、これほど迷惑な話はない。そのため、それだけのためにこうまで回りくどいくらいに災いを起こされたのだとしたら、全くもってしてわたしは理解に苦しむ。と言いつつもきっと神様には何か人知には計り知れない何らかの深い深い意味がおありなのではないだろうか。わたしにはその理由がわからないのだが。もしかしたら、これは秘められている神秘の領域なのかもしれないなとも思う。
 出エジプト記1~11章まで駆け足で来たけれど、ヤコブの子孫たちのいわゆる続創世記であるこの物語を読むことができて今回も幸せな時間だった。そして、ここから出エジプトの出来事へと進んでいくわけだが、それは次回以降のお楽しみ。というわけで、12章からの出エジプト記もぜひともお楽しみに。わたし自身も楽しみだからきっと有意義な学びになることだろうと思う。
 ではでは。神様と共に歩んで参りましょう。神に感謝。

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