あなたのほしいものは何ですか? そう訊ねられたらあなたは何と答えるだろうか。きっとあれがほしい、これがほしいといくつも挙げることだろう。そう答えることのできる人はきっと健康度が高い人で、生きようという活力ややる気に満ちている人なのだと思う。わたしの場合、今そういうのがない。もちろん、ヨガを力を入れてやっていきたいとは思っている。けれど、それがどうしてもほしいかと訊かれると微妙なのだ。やりたいことではある。やると調子が良くなるし、実際やると気持ちがいいものだから。今までヨガの道場に週3で通っていたのを最近週5にしたくらいだから、おそらくわたしはやりたいのだろう。ヨガを深めていきたくて、やっていきたいと思っているのだろう。
何かわたしは枯れていないのだけれど、枯れているのかもしれない(ってどっちなんだ?)。たしかに生きている。毎日を精一杯生きてはいる。でも、目標がない。目標なんて自分で作るものだろ、ということは分かっているものの、その目標を達成したところで、それが何なんだとも思ってしまう。って病んでます、わたくし? 枯れていないけれど枯れているのかもしれないというのはこういうことで枯れている疑いがあるのだ。それか疲れているのかな? 人生に疲れているというか何というか。
目標がないことに加えて、わたしの場合、人生の物語のようなものもない。人生に物語ってやっぱり必要なのかもと思わざるをえない。つまり、わたしにはビジョンというものがない。人生観のようなものもないし、確固たる信仰や信条や信念のようなものももちろんない。ただ、数十年後には死ぬんでしょ? それで終わって、チーンみたいな。本当、寂しい人生観だよなって思ってしまう。
ヨガをここまでやってきて、ヨガというものは自分の利益のためにやるものではなくて、神様のためにやるものだということが見えてきた。だから、自分のためじゃないの。生きるも死ぬも全部神様のためなの。自分を神様に明け渡すの。委ね切るの。
でも、そうなってくると自分という存在は何のために生きているんだろう、みたいな気持ちになってくる。これを悪く言えば、わたしは神様を喜ばせるおもちゃみたいなものってことになるわけでしょ?
ヨガは入り口としては美容とか健康とかダイエットとかそういう自分磨きの方法として始める人が多い。でも、やっていくと最終的には宗教的なところへとたどり着いて、キリスト教やその他の宗教なんかと同じように、自分自身を大いなる存在に明け渡すところへと行き着くんだ。それができないのなら別にそれをしなくたっていい。できる人がやればいい。でも、本当に精神性を求めていくと、ヨガの場合であっても神様を避けることはできない。必ず、神様とご対面することになる。ヨガで言うところの神様はキリスト教の神様とはかなり違っていて異教的なものではあるけれど、それでも神様と向き合うことになる。
なぜこんなにわたしは冷めているのだろう? きっとどんなことをやっても、どんな境地に到達してもそれはそれだけのことでしかないと悟っているからなのだと思う。何かをやる。やってみることによってそれがどんなものであるかが分かる。が、それはそれだけのことでしかない。そんな風に予想がついてしまっているのだ。とは言うけれど、それは予想だろ? 実際にやってみた上で面白かったとか素晴らしかったとかくだらなかったとか大したことなかったとか言っているわけではないんだろ? じゃあ、実際にそれをやってから言えよ。ごもっとも。でも、どんな体験をしてもわたしが超人になったかのような体験ができるわけではないということは予想がつく。どんなに美味しいカレーを食べたとしても、たとえ世界で一番うまいカレーを食べたとしても、それはカレーを超えているわけではないし、カレーであることを超越してケーキとか親子丼になっているということでもない。だから、オリンピックで金メダルを取ることがものすごい快感が走ることで、それは取ってみた人でないと分からないと言ってしまうのは容易いけれど、その体験だって人間を超えて別のものになるわけではない。というか、わたしが冷めた物の見方をしてしまうのは女性とのセックスがあっけないくらいにそれだけのことでしかなかったということを経験したからであって、どんなに気持ちが良かったり達成感があることであっても異次元にトリップできるわけではないのだ。
もっと言うなら、これからの時代、脳に電極を接続して自由自在に快感を味わうことができるようになっていくだろう。それが実用化されれば、オリンピックで金メダルを取った時の最高の気分というものも何の苦労もなしに味わって堪能できるようになる。最高の気分だったり、快感だったり、ともかくそういう気持ちよさを人工的に味わえるようになれば、特に何か努力する必要なんてなくなるし、時間を割く必要もなくなるし、お金を使う必要もなくなる。ただ、病院のような場所へ行って「いつもの気持ちいいのをお願いします」と言うだけですべては完結してしまう。ましてや、それがさらに進めばその病院のような所へも行く必要がなくなり、自宅で専用の機器などを使ってリーズナブルにできるようになる。そうしたらもう現在で言うところの薬物か何かのようにその脳へ電流を流す電極にみんな依存するようになることだろう。挙げ句の果てにはみんな何にもしないで、完全にお家でインドアでそうした人工的な快感をひたすら味わう。そんな人々が増えていき、その結果、人類は堕落して子孫を残していくことなどももちろんできず、テクノロジーによって滅んでいくのだ。
もちろん、その頃には仮想現実の技術がものすごく発達しているだろうから、多くの人がもう現実なんかにいたくないとその作り物の現実の中へと逃避することだろう。そして、その仮想現実の中でひたすら脳に電流を流し続けてひたすら気持ち良くなっている。何にもしないでただその仮想現実の中にいる。そんな未来の姿が予想される。
と、いろいろ、うだうだ書いてきたけれど、わたしがほしいのは承認なのかもしれない。それも熱い熱い全面的なわたしのすべてを肯定してくれるような承認。それは社会学者の宮台真司さんが昔、本に書いたように、宗教か恋愛でしか達成されないのだと思う。わたしは親がアルコール依存症ではなかったけれど、アダルトチルドレンではないかと思う。小さい頃から成果主義、業績主義の空気を暗黙の内に浴びて育ってきて、親から(特に父親)無条件の「ありのままのあなたでいいよ」というような愛され方をしてこなかった。だから、わたしが恋人に第一に求めることは「ありのままのあなたが好きだよ」って言ってもらうことだったりする。わたしに一番欠けていて一番渇望しているものはそう、無条件の承認なんだ。
宗教は、キリスト教で言えば神様とイエスさまが絶対的な無条件の承認をわたしに与えてくれる。あなたは価値があるんだよ。あなたは素晴らしいんだよ。あなたは尊いんだよ、と。とかく宗教というものはそういうものだと思う。
恋愛も単純に見てしまえば、お互いを承認し合うことであって、好き好き、大好きともなっていけば、ありのままのあなたでいいよ。あなたが好きだよ。あなたは価値があるよ、という強烈なメッセージを相手からもらうことができる。
そうした宗教と恋愛はアダルトチルドレンのように自己肯定感が低くて、自分のことをあまり価値がないとか無価値と思っている人への強烈な薬となる。
わたしが過去に自殺未遂をしているのも、やはり自分が無価値ではないかという思いがあったからで、それを埋めようとわたしは懸命にここまでやってきた。そして、ヨガへとたどり着いたわけだけれど、ヨガをやっているのも結局は平安を求めているだの悟りたいだのと言いながらも、そのヨガをやることによって自分自身を精神的、肉体的に強くたくましくすることによって、自分の価値を高めようとしているだけなのかもしれない。さらにはそうしてヨガを深めてやっていけば、ヨガのコミュニティーの中で「いいね」と言ってもらえて承認を与えてもらえる。
そうか、そうだったのか。わたしが本当にほしいもの。それは無条件の承認だったようだ。誰かから無条件に「ありのままのあなたでいいよ」とか「あなたは価値があるよ」「あなたは素晴らしいよ」と言ってもらいたい。それがどこまでもどこまでも強くなったのがパートナーからの「あなたが好きだよ。誰よりも好きだよ。あなたの全部が好きだよ」という最大級のわたしへの承認であり全面的な肯定なのだと思う。
何かわたしの中の点と点がつながってきたような感じがする。わたしが喉から手が出るほどほしいもの。それはきっと承認。それも全面的で無条件のわたしへの承認。
けれども、人というものは条件付きの承認しかしないものだということは分かっている。その条件がメリットであることは言うまでもないことで、ましてや、デメリットがあり危害が加えられるともなれば多くの人が去っていく。そもそも、人から無条件の承認を得ようというのが無理なのだろうか。だとしたら神様からの承認しか残されていないのだろうか。でも、無条件は無理でも、少ない条件でいわば無条件に近い、ほぼ無条件で愛してくれる人(家族以外で)がこれから現れるかもしれない。条件は少なければ少ないほどいい。少なければそれだけありのままのわたしを愛してくれていることに近くなるから。お金をたくさん持っていて、たくさん稼いでいて、学歴が高くて、イケメンで、優しくて、などと条件をこれでもかと要求してだから好きと言われるよりは、断然条件少なく好きと言われる方が嬉しいに決まっている。そして、「ありのままのあなたが好き」とか「あなたの全部が好き」という言葉に優るものはない。わたしが言われたい言葉はそれなんだ。無条件に認められて承認されたい。つまりは、そういうことなのだろう。
ほしいもの。あったじゃないですか。それは悟りでも心の平安でもなかった。ただ、無条件で愛されること。わたしの欠乏感をすべて埋めてくれるような、そんな愛され方を誰かからしてもらうこと。わたしが求めているのはそのようなことなのだろう。このことに気付かせてくれた神様に感謝したい。それではまた。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。