聖書通読毎日コツコツやってます

キリスト教エッセイ
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 10月15日。さて、この日は何の日? 正直言ってわたしもこう聞かれると答えられない。じゃあ、何で何の日なんて質問したわけ? きっとこの日は何かの日ではあるのだろう。もしかしたら15日だからイチゴの日なんちゃって。いやいや、意外とイチゴの日なのかもしれない。でも、調べるのが面倒だなぁ。これを書いているのがポメラだからネットにつながっていない。つまりはオフラインなのですよ。だから、パソコンなどを使わなければ10月15日が何の日か分からない。
 冒頭からひっぱるねぇ。もったいぶるねぇ。だから、何の日なんだよ。しかも何かの日でもない。じゃあ、何の日?
 お答えしようと思う。何と、わたしの聖書通読の開始日なのだ。今年、2021年の10月15日からわたしは聖書通読をスタートしたのである。で、もう早いもので2ヶ月になろうかとしている。光陰矢の如しだな、これは。
 続いている。それも2ヶ月近くも続いている。やったね。すごいね。自分で言い出さないと誰もほめてくれないから自分で言っちゃうよ。
 続けることってなかなか続かないんですよね。これはわたしにとっても皆さんにとっても正直なところだろう。脳科学的には1ヶ月続けられたらもうそれは続けることが確定らしい。だから、何が何でも続けたいことややめたいことは1ヶ月継続するのだ。そうすれば自ずと末永く続けていくことができる。
 わたしの日課とも言うべき聖書通読、どんな感じでやっているかと言うと、①プリントアウトしてある日本FEBCの聖書通読表の紙を見てその日の章を確認する。②新共同訳聖書と文語訳聖書でその日の分を読む。③註解書『旧約聖書略解』『新約聖書略解』でその日の箇所の解説を読む。④その日の聖書通読の箇所のまとめや感想や意見を140字以内のツイートにまとめる。以上。だいたいこれをやると1時間くらいかかって程良い疲労感、やった感に包まれる。なかなか充実していて気に入っている。
 今まではわたしははっきり言ってしまうとクリスチャンなのにろくに聖書を読んでいなかった。いつも自分のかかりきりの読書に忙しくて聖書は礼拝の聖書朗読の時に開くくらいで、(まぁ、たまには読んでいたけれど)どこか聖書に対して冷めていた。取り組もうという気力もなくて、ただただグダグダ自分の読書をしていただけだった。
 でも、10月15日に思った。はっとした。これはまずいんじゃないか、と。クリスチャンだったらもっと聖書を読むべきじゃないか。猛烈にわたしの中に沸き上がってくる思いがあって、それに押し切られる形で聖書通読をやっていきたいと思ったのだった。おそらく、きっと? いやいや、わたしに聖霊が豊かに働いてくださったのだ。たしかに働いてくださったのだ。
 そのおかげで2ヶ月も続けることができた。神様に感謝である。
 聖書はクリスチャンにとって命の書である。自分がどのように生きていくかは聖書と共にあるのであって、聖書をないがしろにして自分勝手に好き勝手に生きていくことはやはり良くない。御言葉と共に歩んでいく。この最も基本的なことに欠かせないのがまさに聖書なのである。
 もう2ヶ月。いや、まだ2ヶ月とも言えるが、続けてみてわたしの中に変化が起こりつつある。何かわたし自身がクリスチャンっぽくなってきたのだ。ぽく? ぽくって違うってこと? つっこまれてしまった。ぽくではなくてクリスチャンらしくなってきたのだ。(訂正)あまり意味は変わらないかもしれないけど、まぁ訂正。何か今まではこの世の知恵に頼って生きていたような気がするけれど、わたしの芯というか真ん中にキリスト教が位置するようになってきた。これが大きな変化と言えると思う。
 やっぱり人は読んでいるもの、つまりは多くの時間ふれているものによって変わってくる。これは紛れもない厳然たる事実だと思う。
 驚いたことは他にもある。前、読もうと思って買った内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)が前にはまったく歯が立たなかったのに、今では読めるようになっている。驚きである。おそらく聖書通読で文語訳聖書も読んでいることが効いているのだろう。内村の文語体にたじろがなくなったのだ。いや、むしろ内村の方が文語訳聖書よりも断然読みやすい。内村がヨブ記について喋ったものだからまぁ分かりやすいのはもっともだけれど、それでも歯が立たなかったものが読めるようになっているというのは、本当に成長を感じるしさらにモチベーションが上がってくる。文語も毎日読めば慣れてくる。わたしは高校の時の古典をさぼったから、文語訳聖書を読みながらも細かな文法的なところまでは分からない。でも、新共同訳を読んだ後の文語訳は何となく読めるのだ。現代語訳読んだ後に古文を読むと分かるようになっている、というあれですよ。あれ。文語訳聖書、特に初日はきつかった。旧約と新約合わせて2章分読むのがどれだけ大変だったことか、今でも覚えている。それでも、それを毎日やっているとそんなに大変でもなくなってくるから不思議だ。脳が文語訳に適応してくると言ったらいいのだろうか。ともかく、読めるようになった。成長。花丸100点。
 これからも聖書通読、継続していきたい。続けていきたい。聖書は死ぬまで読み続ける書だと思っているので、毎日コツコツと地道に取り組んでいきたい。キリスト教神学だって基本は聖書です。聖書を土台に構築されているんです。てなわけでいい習慣ができクリスチャンの星さんは上々なのだ。信仰が深められることを祈りつつ、聖書を味わいながら読んでいきたい。聖書との距離が近づいてきたように感じる師走の中頃なのでした。チャンチャン。

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