13週間聖書通読 12月17日の記録 マタ12~13章、創36~42章

 自分の一匹の羊が安息日に穴に落ちたら助けてやるではないかとイエスさまは言われた。だから、安息日に病気を治すこと、つまり善いことをするのは許されているのだ、とも。

 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。(マタ12:12)

 イエスさまは人間と羊が同じくらい大切だとは言われない。人間は羊よりもはるかに大切だとはっきりと言われるのだ。はっきりとしたメッセージである。
 
 人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタ12:31~32)

 どんなことがあっても聖霊だけはけなしてはならない。しかとその教えを受け止めたいと思った。
「種を蒔く人」のたとえは自分にあてはまるようで身につまされる。でも、こうした自分が道端に落ちた種、茨の間に落ちた種ではないかと思い自戒することには意義があると思うのだ。100倍の実を結びたいなぁ。
「毒麦」のたとえは悪を神様が滅ぼされない理由が示唆されていてとても興味深い。終末まで毒麦にするように、悪に対しても好きなように伸ばしておく自由を与えるのだ。そして、終末になったら毒麦を集めて焼き払う。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(マタ13:30)。うーん、深いなぁ。これによるとやっぱり天国と地獄ってあるようだ。
「天の国」のたとえでは持ち物をすっかり売り払って真珠や畑を買う。うむ、これはできないな。やっぱり生活費は必要でしょう、などとつまらないことを言いたくなってしまいます。持ち物も必要でしょう。うむ、つまらないこと言ってるな、わたし。
 ナザレで受け入れられないイエスさま。やっぱりホームが一番やりづらい。あなたのおしめ換えてたわよ、なんて言われようものなら偉そうなことを言えないのだ。「大工の息子のイエスさんでしょう」みたいなノリで来られたのかもしれない。その大工の息子を預言者、救い主として見ることは難しい。

 創世記はヨセフ物語に入る。ヨセフって生意気というか何というか、空気が読めない人だと思う。兄たちに彼らが自分にひれふしている、みたいな夢を見たと平気で言うし、父親のヤコブにも自分にひれ伏すのだとも言ってしまう。その夢が後に実現されるのだけれど、それにしてもこの空気の読めなさはなかなかのものではないだろうかとわたしは思った。
 そんなわけで憎悪の対象であったヨセフは父のヤコブからもらった晴れ着を兄たちにはぎ取られ、穴に投げ込まれてしまう。商人に売ろうと兄たちは相談する。が、相談しているうちにヨセフはミディアン人の商人たちに拾われて売られてしまう。「ヨセフがいない。」と兄たちはあせる。兄たちはヨセフが野獣に食われたということにするために晴れ着に小山羊の血をつけて父ヤコブに差し出した。今は亡き溺愛していたラケルの息子のヨセフだったから、それを知ったヤコブの悲嘆は半端なかったんじゃないかと思う。その嘆き悲しみぶりは息子や娘たちの慰めを拒絶するほどのものだった。
 ヨセフを買い取ったポティファルはファラオの宮廷の役人で、神がヨセフと共におられたのでポティファルの家はうまくいって栄えていった。そんなわけでポティファルはヨセフに家のことを取り仕切らせる。
 が、そんな平穏の日々にすさまじい人物が登場する。それはポティファルの妻だ。彼女は夫がいるのにイケメンで美しいほどのヨセフにぞっこんで彼に肉体関係を迫るのだ。それをヨセフは断固として拒絶した。神に罪を犯すことができましょうか、とつっぱねたのだ。そんなある日、またもや迫ってくる主人の妻にヨセフは着物をつかまれたので、それを残して決死の思いで逃げた。と、それから主人の妻はヨセフが逆に自分に肉体関係を持とうと迫ってくると夫であるポティファルに事実とは違うことを通告する。
 で、ヨセフは牢に入れられる。少なくとも2年は入れられていたヨセフ。ファラオの夢を解くためにファラオのもとに召される。そして、ずばりファラオの夢を解き明かした。そうしたら囚人ヨセフは一気にエジプトの宮廷の責任者に抜擢。人生の折れ線グラフがどん底からまさにうなぎ登りになったヨセフなのであった。ヨセフは7年の豊作の間に穀物を備蓄しておいて、その後の7年の飢饉に備えるべきだと主張する。
 その頃ヤコブのところも飢饉に見舞われていた。で、穀物のあるエジプトへとヨセフの兄たちを送り出したのだった。そして、ヨセフと兄たちは再会する。ヨセフは兄たちだと気付いたが兄たちはヨセフだと気がつかない。ヨセフは兄たちをエジプトを探りにきた回し者だと言う。違う、と言う兄たちだったが、それなら一人、人質(シメオンが人質に)としておくから末の弟(ベニヤミン)を連れてこい、とヨセフは要求するのだった。そのことをエジプトから帰った兄たちがヤコブに報告すると「ベニヤミンを行かせたくない」と悲痛な面もちでヤコブは言うのだった。
 途中、挿入されている話としてユダとタマルの短い物語がある。ユダが自分の息子の嫁だったタマルと肉体関係を持って、ペレツとゼラが生まれるという話だ。嫁タマルが姦淫をして身ごもったことを知った時のユダの言葉が強烈だ。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」(創38:24)引きずり出されそうになったタマルがユダに使いをやって見せた物。それがあの時ユダから受け取った彼の印章と杖だった。ユダはぎゃふんと言わされたと思う。「わたしよりも彼女の方が正しい。(創38:26)と自分の誤りを認めた。
 こんな決してほめられたものではないユダとタマルの性的な交わりによって誕生したペレツとゼラ、そしてユダとタマルのことも新約聖書の冒頭1章に堂々とイエスさまの系図としてババーンと載っているのだ。イエスさまの系図って訳ありのカップルも載っているからすごい。娼婦だって系図に名前が登場している。きれいごとだけじゃなくて、人間のリアルな生々しい鼓動がそして現実がこの系図の中には記されているのである。
 以上が今日の学びである。今日も内容盛り沢山でいろいろな出来事を聖書を通して体験できたと思う。有意義な学びであった。こうして読んだ内容を整理するのもいいなぁとしみじみ思ったのだった。13週での通読目指して着実にあせらずやっていきたい。神に感謝。

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