自分は自分で人は人

いろいろエッセイ
この記事は約5分で読めます。

 Twitterをやると妙に劣等感のようなものを感じてしまう。わたしのフォロワーの数と他の人のそれを比較してしまうし、「いいね」の数も比べてしまう。何かTwitterって比べさせることを狙っているのかな、と思えてしまうほどだ。
 上には上がいる。どんな世界にも上には上がいる。スポーツをやれば頂上にはオリンピック金メダリストが君臨しているし、勉強をすれば一流大学卒の人とかそれをさらに超えて教える側についている教授とか、さらにその教授の上の称号の名誉教授がいる。で終わりなのか。いやいや、まだ終わらない。ノーベル賞があるよね。上には上がどこまでもあることを思い知らされるのだ。
 比べることは競争を煽らせることによって人間を進歩させ向上させることは事実だと思う。これが完全になくなってみんながみんな完全な平等になったら活気はなくなる。確実になくなる。わたしたちが安くて品質が高い商品を当たり前のように買うことができるのも企業が熾烈な競争をやってくれているおかげだ。でなかったら高くて品質が悪い商品を買わざるを得なくなる。資本主義は資本主義で問題があるけれど、じゃあそれをひっくり返せばいいかと言えばそんなに事は単純ではないと思う。まぁ、そのあたりは時間に余裕ができたら社会主義とか共産主義とか資本主義とかの勉強をしていけたらと思っている。
 自分は自分で人は人だということは分かっているつもりだけれど、どうしても人と自分を比べてしまう。そして、劣っている自分が情けなく思えてしまって気持ちが沈んでどんよりしてくる。
 でも、それは考えてみれば無茶な話なのだ。必ず何をやっても上には上がいるのだから、その自分よりも優れている人がいなくなるという状態はいつまで経っても訪れることはない。どこまで行っても、どこまでやっても上がいるんだよなぁ。必ず勝てない相手が出てくるんだよなぁ。
 世の中にはいろんな人がいるから、わたしよりも頭が良くて、ルックスもわたしより良くて、運動もできて、お料理も上手で、いい大学を出ていて、高い年収を得ていて、車を持っていて、元モデルのきれいな奥さんがいて、さらに豪邸で優雅に暮らしている。そんなわたしとは比べものにならないくらいほぼすべての要素においてわたしよりも優っている人は結構いるんじゃないかと思う。
 でも、そんな人を羨ましく思う心が捨てきれないものの、それでもわたしはわたしだと思うようにしたい。以前わたしのブログの記事に、わたしが芥川になれないように芥川もわたしになれない、といったことを書いたかと思う。さきに述べたあらゆるスペック(?)においてわたしよりも上の人であっても絶対にできないことがある。それはその人がわたしになることだ。どんなに努力をして仮に学問の最高級の名誉であるノーベル賞をとったとしても、オリンピックで金メダルをとったとしても、総理大臣になれたとしても、はたまた歴史上に名を残すようなとてつもない偉人になれたとしても、わたしにはなれないのだ。これはとても痛快で愉快でさえあることだと思う。どれだけ自分の能力や持っているものを拡張していってもその人はその人でなくなることはできないのだ。どんなにどこまでやっても所詮(という言い方はどうかとも思うが)その人はその人なのだ。その人でしかないのだ。
 だから、わたしがわたしとしてこの人生を生きることはとてつもなく価値があることなのだ。わたしとしてわたしの人生を生きることができるのってわたししかいないでしょ。わたし以外の誰がわたしとして生きることができるんだ? わたしがわたしの人生を歩んでいき、年老いてやがて死を迎える。何て尊いんだろう。
 他の人と比べてしまう自分も確かにいる。そして、劣等感によって萎縮してしまう自分もいる。でも、比べるんじゃなくてわたしがどれだけ成長できたかが大事なのだ。むしろ比べるのは過去の自分だ。その過去の自分(昨日でも一昨日でも一ヶ月前でも一年前でもいい)と比べて1ミリでも何か進歩していたらそれでいいじゃないか。
「いやいや、星さんわたしは1ミリ成長するどころか1メートルくらい悪化していますよ」と言う人がいるかもしれない。もしかしたらその人は成長するどころかその言葉の通り退いているのかもしれない。でも、逆に言えば1メートルも下がったのだから伸びしろがあると言えないだろうか。その1メートル下がったところから0.1ミリでもいい。まるで植物の成長を日々眺めているかのような穏やかなペースで成長していっていただけたらと思う。けれど、ここまで成長、成長と言ってきたけれど成長しなくても保つだけでも、保って現状維持をすることでもいいと思うのだ。現状維持ってなかなか大変なんですよ。わたしの祖父は施設に入所しているのだが、そこのリハビリ担当の人は「現状維持を当面の目標にやっていきます」と言うのだ。足腰が弱って歩くことが難しくなってきている祖父に「さぁ、今から筋トレをしてムキムキになりましょう。そのためにはスクワットを100回やって1時間くらい歩きましょう」みたいなことを言おうものなら、言うまでもなくそれは無理なのだ。つまり、何かを鍛えるなりして伸ばすことは大変なことなのだ。だから、現状維持を目標にする、という考え方がある。キープするのである。
 でも、わたしに言わせれば、どんな人でも毎日、毎瞬間ごとに成長しているんじゃないか。これはわたしの実感なんだけれども。持論なんだけれども。少なくとも人生を生きるということは時間を積み重ねていくことだ。だから、1分1秒重ねていくごとに誰しも成長できていると思うのだ。時間を経るごとに1ミリずつ成長して大きくなっている。自分では感じられないけれど、経過した時間が増えるということは経験が増していくことでもある。
 さて、冒頭の「自分は自分で人は人」ということに戻りたい。わたしがわたしとして生きること。これはわたしにしかできない仕事だ。他の誰にもこの仕事だけはできない。どんなに逆立ちしたってできない。だから、人と比べて落ち込むことから卒業できたらとわたしは思っている。たしかに凄い人を前にすると途端に自分が無価値であるかのように思えなくもない。でも、自分は自分で人は人。この言葉を自分によく何度も言い聞かせながら自分をできる限り成長させていく。そして、昨日と比べて1ミリでも成長できていたらそれを良しとして認める。たとえそれが誰かと比べて取るに足りない物のように思えても、である。
 わたしが死ぬまで必死に努力しても誰かの中間地点にさえも到達できないかもしれない。でも、いい。わたしはわたしで人は人なのだから。誰かにとって朝飯前なことを達成するために人生の多くの時間を自分が使ったとしてもそれはそれでいいのだ。自分にとって成長できていたらそれでいい。わたしはそんなシンプルな考えでやっていきたい。
 自分は自分で人は人。それでいい。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました