いろいろエッセイインド哲学
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 今朝も街へ行き、道場でヨガをしてきた。帰りには途中下車して海も見てきた。
 海を見ているとつくづくこの世界は波だなぁってしみじみ思う。波ってね、本当に少しの間しか波として現れないんだ。起こったかと思うともうすぐに海の水へと戻っている。で、また次の波が来て、また次の波が来て……、と。
 この世界もそれと同じように、生まれては死に、生まれては死にを繰り返している。それは人間を含む生き物だけではなくて、たとえば電信柱とかビルとかガラスのコップであっても、そういったことをしている。こういった生き物ではないものであっても、その瞬間ごとに変化しているのだから、生まれては死にを繰り返しているのと同じだと思う。現に目に見えるほどではなくても、酸化はしているし、確実にその瞬間瞬間ごとに古くなっていることは事実。
 形あるものはいずれは滅びる。これは鉄則と言ってもいい。形あるもので永遠であるものなんてない。いつかは滅びる。だから、今手にしているものであっても、いつかは手放さなければならない。その最たるものが自分自身であって、いつ死ぬのかは分からないけれど、いつかは死ぬ。だから、いつかは手放さなければならない。肉体がいつかは死んでしまうことの他にも、お気に入りの家だったら老朽化していくし、大好きな家族も歳を取っていって老いていき、いつかは死ぬし、最愛のトロフィーワイフだって永遠の輝きを放つわけではないし、お金だって稼いだものの死ぬまでに使い切れなければ誰かにそれを譲らなければならない。
 こういう感じで見てみると、わたしを含め多くの人たちは、そういったものを頑として手放そうとしていないだけではなくて、それらが失われることが破滅だとさえ思っている。だから、必死でしがみついて何が何でも失わないようにと命がけであがく。
 が、わたしにとってそれ以上に最近衝撃的だったのが、そういった確実にある、存在すると思ってきて疑ったことがほとんどなかったそれらがもしかしたらそもそも存在していないんじゃないの?、幻なんじゃないの?、ということだった。
 万物は波のようなものである、ということなら、一時的ではあるものの波は存在していたのだからこれはまだ常識的な感覚だろう。が、その波自体がそもそも幻だったらどうなのだろう? この世界、この現実(だと思っていて、思ってきた)が幻であって本当は何も存在していなくて、という事態が真相だったら……。
 今日、ヨガの道場へ行くために電車に乗った時に、ふと「今目の前にある景色を含めたすべてが存在していないのかもな」とわたしは不思議な感覚に襲われた。自分の周りにはいろいろな物があって、人がいて、ひしめき合っているのに、本当は何もない。何もなくてただ無がどこまでもどこまでも広がっている。そんな風さえ吹かない殺風景な様子をイメージしたのだった。
 こんな話を精神科の診察室でしたらきっと「星さん、調子が悪いのですね」とお薬を増量されるに決まっている。けれど、何もこれはわたしが最初に思ったり考えたことではなくて、先人の受け売りのようなものなのだ。インド哲学のアドヴァイタ・ヴェーダーンタという不二一元論では真面目にこの世界は幻だと喝破している。あるのは真我という本当のわたしだけ。それだけがあって、それが全てであって、それで完結して自足している。言うならば神様のような存在。ただそれだけがあって、それ以外のものは何も存在していない。それ以外で、あるように感じるものはすべてただの幻でしかない。
 それはどこまで本当なのだろう? たくさんのインド人が今ままで騙され続けてきた大いなるフィクションなのだろうか? 壮大な嘘であり単なる作り話なのだろうか?
 けれど、根が素直なわたしは(自分で言うなよ。てれるぜ)そういうインド哲学の本を読んでいたら俄然それが正しいような気がしてきて、そして今こうしてそんなこの世界が幻なんじゃないかという不合理なことを信じ始めている、という次第なのだ。
 仮にそのアドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えが誤りで間違っていて、やっぱりこの世界だったり現実だと思っている日常はたしかに存在していて実在していた、というのが真実だったとしても、そんなに大差がないようにわたしには見えてしまう。この世界、万物が幻でなくても、幻のようなものであることに変わりはないからだ。
 幻のようなもの。それはどこまでも儚いものであるということだ。海の波のようにほんのわずかな時間しかそれらは持続しない。もう次の瞬間と言ってもいいほど間髪入れずにもう消えている。だからそれはまさに幻のようなものでしかない。
 いや、人間の肉体は少なくともだいたい80年とかそれくらいはもつよ。家だって数十年は大丈夫。だから、波とは違うんだ。永続こそしないものの、それなりにもつし、長続きするから、と。
 でも、そういった人間や物の寿命を本当に長期的な視点から見つめ直したら、見え方は変わってくるわけでして。
 80年あまりの人間の寿命も、1日、1週間、1ヶ月、1年といったくくりで見れば、とてつもなく長い長い時のように見える。けれど、それを宇宙の流れの何億年とか永遠の時間の流れの中でとらえてみたらどうだろう? その80年は瞬きにもならないほどの時間でしかないことがきっと分かるだろうと思う。時間の長さを考えると、比較する時間の長さ次第でそれは短いとも言えるし、長いとも言える。絶対的に長い時間とか絶対的に短い時間なんていうものはない。別のものと比べなければそのものがどうかということは分からないものなのだ。
 その80年が瞬きでしかないのなら、それはほとんど幻のようなものだと言って差し支えないのではないかとわたしは思うのだけれど暴論なのだろうか? ゼロではなくて、80年は80年だけれど、限りなくゼロに近いと言えるのではないだろうか。それをどこまでも長い長い時間と比べたらそれはゼロのようなものとして見えてくる。
 というか万物が仮にちゃんと存在していたとしてもそれらは瞬間瞬間ごとに死んでは生まれて、と繰り返しているとも言えると思う。そして、その瞬間瞬間ごとが限りなく短くなっていけばいくほど、それはゼロに限りなく近くなっていくわけだから、生きている時間はほぼゼロだ。となると、常識的には生きているように見えても、実際には持続していないのだから存在していないこととほぼ変わりがない。
 なんてぐちゃぐちゃ屁理屈こねてみたけれど、そんなことはどうだっていい。わたしが言いたいのはそういうことではなくて、この世界が幻かもしれないと思った時に、なぜか急に気持ちが静かになって落ち着いて楽になってきたことだ。何だか頭の中がスーっとしてきて、一陣の風が吹いたかのようだった。
 今、わたしが自分だと思っているこのわたしの肉体と思考と感情。そして、日常の風景やこの世界全体(それには他者も含まれている)。とにかく、わたしがあると思っているこれらのもの。それが全部幻だとしたら何て痛快なのだろう。なんて面白がっていてはいけないのかもしれない。でも、痛快と感じると同時に気持ちが透き通ってくる。わたしはどれだけこの世界というものに執着してしがみ着いていたのだろうとその度合いが強かったことに気付かされる。この、わたしの場合はまだ「幻かもしれない」と想像をしているだけだけれど、それでもこのもしも話はすごく自分自身を露わにしてくれる。
 わたしは社会的に成功したかった。自分の書いた文章を多くの人に読んでもらって、たくさんの人たちから大絶賛されて、ゆくゆくは尊敬さえもされたかった。それに加えてわたしはお金もほしかった。高収入の仕事をして豊かな生活をしたかった。リッチまで行かなくてもそれなりにゆとりのある生活をすることに憧れていた。また、わたしは意中の人を手に入れたかった。手に入れて彼女と楽しく暮らしたかった。
 でも、でも、何かこの自分自身も含めた万物が幻かもしれないと思った時に急にこれらの夢がかすんでしぼんでしまった。本当にこれらを達成することに意味があるのだろうか。そんな風に思うようになったのだ。もちろんかなえば嬉しいに決まっている。けれど、そうした全く存在していないか、あるいはかろうじて存在しているものの儚いものでしかないこれらを得るために血眼になって取り組むことに価値があるとは何だか思えなくなってしまった。20代の頃に哲学者の中島義道がわたしにささやいた「どうせ死ぬのさ」が40歳の今、「どうせ存在しないのさ」「どうせ存在しないようなものなのさ」に形を変えて再来したかのような、そんな感じがする。
「~してしまった」という言い方をするとまるでそれらがネガティブな響きしか含んでいないかのようだけれど、わたしの場合はそうではなくて、逆に割り切れたというか開き直れた感じだったりする。
 この世界が幻だとしたらもう世界からダメージを受けることはなくなる。だってそれは幻でしかないのだから。でも、話はそれだけではなくて続きがある。それは本当のわたしは宇宙意識のような存在で(エネルギーと言ってもいいかもしれない)広大無辺で限りなくすべてに満たされていて完全無比で何も足りないものはないということ。自分だと思いこんできた肉体も思考も感情もそれらはわたしではなくて、本当のわたしの姿はその大いなる自己とか宇宙意識と呼ばれる真我なのだ、ということなのだから、そのことさえわきまえていれば、この世界でうまくいかなくてもそれは些細なことでしかない。言うまでもなく、この世界は幻、あるいは幻のようなものでしかないのだから。
 なんて、長々と書いてきたわたしですけれど、まぁ、この文章も数人に読まれて終わるんだろうなと思う。寂しいと言えば寂しい。でも、そうした事態も「幻だからね」と思うことにする。いいじゃん、幻なんだからさ。と言いつつも、くれぐれも注意してほしいのは、わたしが「この世界は幻だ」とは断言していないこと。というのは、言い方を変えれば、この世界は幻ではなくてちゃんと実在しているのかもしれない、ということ。だから、自分と他者は傷つけないでほしい。むしろ、この世界を幻だと思うことによって、真我の完全性に安らいで平和に暮らしてほしい。それがわたしの願いだったりする。
 と、幻であるわたしがこれまた幻でしかない文章を書き、幻のブログで公開して、幻の読者に読んでもらおうとしている。すべては幻なのか? すべては幻の中の出来事でしかなくて夢とか蜃気楼のようなものでしかないのだろうか? だんだん現実感覚があやふやになってきた。わたしが見ているのは夢? 幻を見ているの? 誰か教えて。って幻の中で幻でしかない叫びを上げても仕方がないと了解しつつ、それでも幻の中で叫ぼうとしているわたしがいる。そのわたしも幻? いやはや、幻の中の精神科のこれまた存在していない幻の主治医に幻のお薬を追加で出してもらって幻のわたしの精神状態を安定させましょうか? ってくどい。
 迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのお家はどこですか、を改め、迷子の迷子の大地さん、あなたの現実どこですか。な~んてね。いや、むしろ迷子になるどころか目が醒めたのです、と覚醒し始めた星さんはどこへ向かっていくのか? 幻の中でかもしれませんが、乞うご期待!?
 他人の言動(本なども含む)に影響を受けやすすぎてすみません。きっと心根が素直で純粋なのでしょう。幻の日々はこうして続いていく(はず)。ま、幻かもしれんけどね。

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