浮き世離れしてますな

いろいろエッセイインド哲学
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 今日、ネットをやっていた。やらなければいいのにやった。それも見なくてもいいような、そんな動画を見ていた。その動画は、共働きの是非とか女性の社会進出といったことについてのもので、何だか見ていたら心がかき乱された。
 その動画では何人かの意見の違う人たちが議論していて激しくやり合っていた。何もそんなにムキにならなくてもいいのに、と思うくらいにヒートアップしていた。まぁ、それだけその人にとってそのことが譲れないところなのだろうと思う。
 よく、平等は大切なことだと言う。男と女は平等にすべきだと多くの人が思っているし、そう考えているようだ。でも、哲学的にというか究極的にとらえようとするなら、そのことに根拠はあるのだろうか? 絶対的な根拠はないと思う。それは神様しか知らない。その神様しかそのことを知らない状況で、じゃあ、どうしていったらいいのかと考えるわけだけれど、だとすると平等にするのが一番いいのか?
 でも、暴論のようだけれど全員を平等にする、あるいは平等に扱うなんてことはできないし、そもそも不可能だ。だってみんな違うじゃん。容姿も性格も能力も人格も体力も何もかも違う。少なくとも同じことをやらせたら、歴然とした差が出るのは当たり前。それぞれに違うことをやらせても、その中でまた優劣が出てきてしまう。
 となれば、本当の意味での絶対的な平等を実現するにはどうしたらいいかと言えば、わたしには二つしか思いつかない。が、その二つは口にすることもはばかられるような現実的ではないもの。
 一つは、もうそんな平等なんていうのは無理だから人類を消滅させる。宇宙の歴史の中から消し去るんだ。でも、これは人類が一番採りたくない選択肢だ。だって死ぬのは嫌だし、生きていたいし、できるなら人類を可能な限り存続させたいと普通は願っているからだ。というわけで、最初のこれはバツ。
 二つ目は、もうこうなったら完全に同じにするんだと、一人の優秀な人のクローンだけを大量に誕生させて、人間同士の違いをできるだけなくすようにする。優生思想を極限にまで追求していって実現させようとすると、人間は何十億もの違う人たちが生きる必要はなくて、ただ1人の選ばれた遺伝子だけがあればいいということになる。だから、全く同じ人が地球に数十億人いる。それで結構。それで十分。それこそが人類にとって最善の未来なのだと考えて実行するのだ。
 こういう一見どうでもいいように思える話を持ち出したのは、どうして多様性を尊重することが大事なのかということの答えがその極端なあり方によってかえって浮き彫りになってくるからだ。
「みんな違ってみんないい」とよく言うけれど、わたしはそこまでは思えない。違いの中でその、人と違うことが他の人に危害を加えたりする場合にはそれは容認できない。でも、多くのことはみんな違うのだからそれでいいのだと思う。
 さきの動画では保守派とフェニミズムが戦っていたけれど、結局誰かに自分の意見だったり考えを押しつけることが問題なのだ。押しつけさえしなければ、「あぁ、あなたはそう思うんですね」で終わる。平行線になったとしたら、それはもう平行線なのだからどんなに互いに譲歩し合っても分かり合うことは無理だろう。話し合えば分かり合えるなんて言いたくもなるけれど、多分それは無理で、話せば話すほど相手との違いが露わになるだけで感情的にもどんどん不快になっていく。実際、自分と意見や考えの違う人と話をするというのは不快なことなんだ。やっぱり似たような考えの人たち同士でつるんでいるというのがこの世界のあり方なのだし、別にそれでいいのだと思う。逆に無理をして合わせなくたっていい。違うんだから。
 けれど、一方で、もしかしたら想像力も必要なのかもしれない。保守派の人はLGBTをあまり良く思っていないけれど、実際自分がLGBTとして生まれてきたらと想像してみる。また、フェミニズムの人は自分が男性として生まれていたらどうなのだろうかと考えてみる。そういう風に自分と対立している立場のことに思いを馳せてみるのも悪くはないだろう。
 自分が割合裕福な家庭で育ち、高い学歴を得て世に言う一流企業などに入り、エリートコースを歩んでいたらそれはもう保守になってもおかしくない。だいたい、男が働き、女は家を守るというあり方を理想とするためには男がしっかりと稼げていることが必要であって、その男が正規雇用でもあまり給料が良くなかったり、非正規雇用だったり、無職だったりすれば、そんな専業主婦がどうこうなんて言っていられなくて、女も生計を立てるために働かなければならなくなるんだ。
 それとは反対に貧しい家庭で育ち、ろくに学校にも行けず、貧困にあえぐ人生なのだとしたら思想的に左寄りになっていくのは言うまでもない。「人間は平等のはずだ。それなのに平等になっていないのはおかしい。こんな世の中絶対間違ってる」と裕福な人たちから自分たちは搾取されているんだと訴えることだろう。金持ちたちが自分たちをコキ使って私腹を肥やしているのだと主張してはばからないはず。
 結局、問題の根源というか根本的な原因は、人がみんな違っていて能力などに差があることであって、このことがこうした現象を引き起こしている。能力が高い人が短時間でたくさん効率よくお金を稼ぐことができる、この社会の仕組みそのものが原因なのだ。能力が低い人が働いている同じ時間で、できる人は何倍も稼ぎ出す。「こんなゲーム、バカらしくてやってられるかよ」と能力の低い人は思う。しかも、この高給取りになるためには学校といういわゆる養成機関へ行くことが必要であって、またそこへ行って勉強するにはたくさんのお金が必要で、しかもそこへ入るための試験もお金に余裕があった方が有利(家庭教師を雇うとか有名私学へ行くとか塾へ行くとか潤沢な学習教材を買うにもお金があった方が断然有利)。
 だから、わたしはそこから降りることにした。そして、こうしたゴチャゴチャした現実を単なる幻なのだと冷めた目で見ることによって別のベクトルでやっていこうと思うようになったのだ。もうわたしは諦めた。どんなに立身出世してもお金持ちになってもそんなものは泡のようなものでしかないと見限ったというわけなのだ。わたしは弱者として、いわゆる精神障害者として生きていく。なおかつ、この世のものに執着しないで生きていきたい。もちろん、だからと言って、出家して世を捨てるとかそんなことなどできるわけがないから、在俗ではある。でも、もう手に入れることにはこだわらない。本当に自分にとって必要な、必要だと思えるような本質的なことのために生きていけたらと思っている。タワーマンションもフェラーリもトロフィーワイフも手に入れた時には最高の気分だろうけれど、それらもじきに飽きる。となれば、さらに上のもの、ハイクラスなものを次から次に求めていくようになるだろう。そんな人生、きっとむなしい(まだやったことはないけれどそんな気がするという話)。
 この記事だって数人に読まれておしまい。でも、それならそれでいい。わたしが書きたくて書いてそのことに満足できているのだから。あるいはもう少し欲張ってその数人が心を動かしてくれたかもしれないから。
 人生は一瞬現れたかと思うとすぐに消える波なのです。うたかたの泡のようなものなのです。いや、そもそもこの世界自体が存在しなくて幻なのかもしれません、なんてね。浮き世離れしてるなぁと自画自賛(ってことになるのか?)しつつ、いかがなものでしょう?
 数少ないこのブログの読者の皆様に愛を込めて。みんなぁ~、わたしの愛を受け取ってくれたかい?

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