結果

いろいろエッセイインド哲学
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 今朝、ふと高校の時の文集を読みたくなった。読みながら、その文集に寄せられていた先生たちの文章の中で「結果」というタイトルのエッセイにわたしは心動かされた。
 その先生は問うていた。結果とは何なのだろうか、と。不登校になってそれがゆえに新進気鋭のアーティストとして活躍している人の話などをその先生は紹介しながら、結果って何だろうみたいにつぶやいていた。
 結果。結果だけを見るなら、高校の同級生で弁護士になったKと精神障害者で働いたことさえなく無職で年金暮らしのわたしとではKの方が結果を出せている、ということになる。でも、だからといってKの方が人間として上で価値があってわたしなどよりも大切にされるべき存在である、ということにはならないだろうと思う。たしかにKは東大卒の人でさえも合格することが難しい司法試験に受かるために血のにじむような勉強をしたに違いない。血がにじまないまでも相当頑張ったはずだ。
 でも、何だろう。わたしにはそれはそれだけのことでしかないように見える。それだけなんて失礼の極みなのかもしれない。でも、それだけのことなんだ。
 精神科の外来へ行くと、そこは結果を出せていない人の巣窟のようで、世間的には働いていなくて生産性なんてほとんどないような人であふれている。わたしを含め、そんな社会にとっての重荷でしかない彼らを生かして養うことにどれだけの意味や価値があるのか? どこまでも金と時間という単純明快なものを基準にして考えていくと、そうした障害者の群れは無駄なものののようにしか見えない。
 というか、そもそも誰かを価値のある人間だと言うためにはそのための判断基準が必要となる。その中でも経済的価値というものをわたしたちは重視する。その人が活動することによってどれだけのお金を生み出すことができるか。もっと言うなら、どれだけ他の人に利益をもたらすことができるか。そうなると、みんなに多くの利益をもたらして幸せにしてくれる人は喜ばれて重宝される。その結果、対価としてそのハッピーにしてくれた人にお金を払うわけだ。
 けれども、その経済的価値は一つの基準でしかない。その価値がまるで神様か何かのように祭り上げられてしまう時、そうした価値をもたらすことができない、いや、むしろそれどころか逆に、その人のお世話をするためにたくさんのお金が必要ということになれば、何も利益らしい利益をもたらしていないのにそんなに自分ばかりもらってずるいじゃないか、ということになる。
 そんな世間の価値観の中で溺れそうになりながらも、最近インド哲学を勉強していて思うことは、ただあるんだな、ということ。最近の記事には、自分や他者も含めたこの世界や現実が幻ではないかみたいなことも書いたけれど、まぁ、とにかくそれでもこの世界やわたしや他者はあるように見えるし、そう思える。五感に欺かれているだけで真実は虚無なのかもしれないけれど、とりあえず、あるんじゃないかと。少なくともそういう風に感じてはいる。
 この世界が幻ではなく実在するかどうかは置いておくとして、仮に存在し実在するのだとしたらやはりわたしは海の波のようなものではないかと思う。一瞬立ち現れたかと思うと、すぐに消えて海へと戻る波なのだ、と。だから、さきの弁護士になった同級生のKも精神障害者で無職のわたしも同じく波でしかない。その波の間に優劣はあるのだろうか。Kという波は大きく力強くて、わたしという波は弱々しくてしょぼいのかもしれない。この二つの波を比べて誰かは言うことだろう。Kの波を見て「今の波、いい波だったね」と。一方、わたしの波は弱々しくてほとんど誰からも見向きもされず、感想を言ってもらえるどころか波として起こったことさえも気付いてもらえない、のかもしれない。
 けれど、たしかにいい波とそうではない波があるものの、どちらも一瞬現れては消えていくだけのものでしかないとわたしは思うのだけれど、ここまでこき下ろしてしまうとKが気の毒だろうか。いやいや、それこそが真理なのだ。形ある物はいずれは滅びて消滅する。インド哲学流に言えば、永遠なのは形のない本来的自己、そしてそれと同一である宇宙意識だけであって、形のあるこの世界、世界にある存在している物、わたしの肉体、思考、感情、ならびに他者といったものは遅かれ早かれ滅びる定めにある。そういった形あるものにしがみ着いて、それを得ようと必死になったり、得たら得たでそれを失うわけにはいかないとこれまたしがみ着くのはとても苦しいことだ。
 そんな万物を波とみなすような醒めた目でわたしと他者を含むこの世界を眺め直してみると、何だ、みんな等価ではないかと思えてくるから不思議だ。そう、みんな等しいということ。金持ちも貧乏人も、善人も悪人も、能力の高い人も低い人も、学歴のある人もない人も、男も女もそれ以外の人も、若い人も高齢の人も、優しい人も意地悪な人も、そして、人間以外の万物においてもそれらはただあり、存在していて、その間に優劣や価値の高低や貴賤や序列なんていうものはない。どんな波もすべては大きな海の一部でしかなくてただの海の水なのだから、それは等価なんだ。
 まぁ、万物が波だと信じないとしても、100年後には今生きている人はみんな死んでもういないわけだから、そうなったら誰が優れていて誰が価値があって、みたいなことを言っても昔のことになりすぎていて、ほとんど意味をなさないと思う。現に江戸時代に生きた何々さんはすごい人だったとか、平安時代の何々さんはものすごいお金持ちだったとか、戦国時代の何々さんは戦の達人でそれはそれは武勲を立てたすごい人だったとか、そんな話を今したとしても「へぇ~、そうなんですか。すごい人だったみたいですね」と一瞬、その話を聞いた人の心を微動させるだけのことでしかない。
 結果ではなくて、今、ここにこうして生きていて、今にいて、ただ今という瞬間を味わう。それでいいと思うのだけれど、それでも結果は必要なのだろうか。すべて形ある物はいずれ滅びる。だからこそ、今が尊くかけがえがないことに気付く。結果は結果でしかない。だから、それに執着する必要はないと思う。結果にこだわらず、今を生きていきたい。

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