母校の文化祭へ行っていろいろありましての巻

いろいろエッセイ
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 今日、母校(高校)の文化祭へ行ってきた。朝はヨガの道場へ行ってヨガをやり、それから行くというわたしにとってはなかなかハードなスケジュール。
 行ってみて最初に思ったこと。それは高校生がいっぱいいる、ということ。って当たり前でしょう。だって高校なんだから。男女ともに高校生ってお肌が違うわけでして、何かみんなプルプルしているわけです。もう40歳にもなるおっさんのわたしからすると、あの質感は真似できるものではなくて、「いいなぁ。若いっていいなぁ」とつくづく思う。
 で、そんな若々しい彼らが多くいる中で時間を過ごしてみて、わたしは人というのは花みたいなものだなぁと改めて思った次第。高校生の彼らは美しさが全開の花真っ盛りで、言うまでもなく若さでキラキラしているんだ。
 体育館で有志が歌を歌ったり、ダンスを踊ったり、といったものを見させてもらったのだけれど、あぁ、青春だなぁっていう感じが全面に出ていてそれはそれは若さで溢れていた。
 でも、わたしは40歳のおっさんではあるものの、その年齢にならないと出ない味だったり貫禄というものはやっぱりあるようで、何か彼らが子どもっぽく見えてしまう。というか、10代の少年少女に人としての深みだ何だなんて求めること自体が酷ではあるのだけれど(と言いつつもわたしにその深みがあるのか少々自信がない)。
 まぁ、深みがどうこうみたいな話は置いておくとしても、その母校はいわゆる進学校だから所々にその頭の良さが出ている。というか、出てしまっている。クイズをやっていた部があったのだけれど、わたしはまったく歯が立たなかった。いや、歯が立たないというよりは、クイズのシステムというか、どういう感じで答えたらいいのかということさえもよく分からなかった。わたしはいわば失格になっているみたいな状態で、それはそれは無様だった。クイズのシステムというか、やり方すら理解できないわたしにその部の女の子は困ったような、でも10%くらいあきれているような、そんな表情を見せた。まぁ、あれだけざっくりとした説明では分からないよ、などと言いたくもなってくるのだけれど、普段難しいお勉強をしている彼らからしてみたら、何も難しくはないのだろう。でも、もう少しクイズの仕組みをシンプルにしてほしかった。あれでは普通の人ができないだろうから。
 歌などステージの出し物を見ていた時に、その騒がしい音楽をよそにわたしは一種の瞑想状態に入っていた。今、目の前で繰り広げられているこの現実だと思っている光景は本当にあるのか? 存在するのか? 実在しているのか? 幻なんだろうか、などとひたすら考えていた。こんなことを文化祭のステージを見ながら考える人なんてまずいないだろう。わたしが変わっているのかもしれない。でも、考えた。その出し物が騒がしかったり、心をかき乱されるものであればあるほど、何だかそれらが、現実だと思っているこのリアルが疑わしくなってくるのだ。と、考えつつも結論は出ない。出ないながらも、どうやら幻のようなそんな気がしてきたのだった。
 ちょっと、ぼーっとしながらもそんな感じで校内を回り、何をするわけでもなくブラブラしていた。これは夢か幻かとまでは思わなかったものの、楽しいとかウキウキ絶頂とかそんな感じではない。まわりが楽しく浮かれていればいるほど、その温度差を感じて、何だか孤独さえも感じ始めた。だって、完全アウェーなんだ。もう卒業してから20年ともなれば、知っている人なんて一人もいないし、誰かと顔見知りなわけでもない。ただ、余所者として来て、余所者として文化祭に参加している。ただそれだけのこと。
 面白いか、それともつまらないかどうかと言えば、つまらないというわけでもないけれど、おおむね、つまらない。わたしの好奇心を満たしてくれるようなそんなものはなくて、もちろんヨガ同好会とかヨガ部の出し物なんかも、そんな集まりはないから存在しない。高校生も普段こうして接客みたいな事をしていないから、わたしが部の部屋へ入ってもほとんど何も言わないで自分たちで話をしているだけのところもあったし、まぁ、そんな感じだった。
 おっさんのわたしが普段自分自身で特化したかなりマニアックな活動をしているせいか、そのどれもが刺さってこない。
 そういうわけで帰ることにした。お肌がピチピチしている高校生たちよ、さらばだ。来年は来ないだろうけれど、来たくなって来るかもよ。というのは、今思いついたセリフであって、その時には何もそんなことは思っていなかった。とにかく、暑くて暑くて。少し朦朧となりながら母校を後にした。
 で、その後、事件が。わたしが高校を出てしばらく行ったところで帰りのバスを待っていたら、誰かバス停に来たようだったので後ろを振り向いた。すると、今風の格好をした髪の毛が黄色いヤンキー風のカップルの姿があって、そのうちの男がわたしに「は~い、アディダス、気持ち悪いから見ないで~」と言ってきたのだった。わたしはその時、状況を飲み込むまでに少し時間がかかった。わたしは全身をアディダスで固めているのだから、わたしのことを言っているのはたしかだ。でも、ここまで露骨にひどいことを通りすがりの人に言われた経験が今までになかったので、言葉を失ってしまった。が、だんだん怒りがわいてきた。理不尽というか、相手の失礼を通り越したその言葉に腹が立ってきた。で、言葉もないまま、わたしはその二人をじーっと見ていたと思う。そうすると、その男は「見んなよ。見んなよ、気持ち悪いから」とさらに畳みかけてくる。連れの女はその失礼な言葉を注意などしないで、ただ決まり悪そうに黙っている。
 この際、言っておきますけど、その男の言葉は軽はずみだと思う。思慮深さなど微塵もない。たまたまわたしが温厚で、平和的な人物だったから良かったものの、人は見かけによらない。相手が何か危険な物を隠し持っている可能性だってある。なめてかかって大火傷どころか返り討ちにあうことだって十分にありうる。だからこそ、リスク回避の点から言っても通りすがりの人には喧嘩を売らない方がいいのだ。
 でもね、そのわたしへの誹謗中傷としか取れない言葉は完全にひがみじゃないかなぁって思う。大抵、自分よりもルックスやその他もろもろの点で優れている人を見ると、批判したくなるじゃないですか。批判してこき下ろして否定して「お前は価値がないんだ」と言うことによって自分自身の価値を上げようとする。ただそれだけのことなんじゃないかなって思う。あるいは、本当にその人にとっては気持ちが悪かったのかもしれない。というか、自分にとって一番嫌いなタイプの人だった可能性もある。彼にとっては一番許せない、認めたくないタイプの空気をわたしが放っていたのかもしれない。でも、それを初対面の、と言うよりも通りすがりの人に、バスを待っているだけの人に普通言いますか? 言わないでしょう、普通は。
 結局、わたしは何もしなかった。暴力はもちろん言葉を用いた反撃もしなかった。本当は言ってやりたかった。その言葉を発することによって相手を貶めてやりたかった。けれど、こらえた。なぜなら、相手がどんな人物なのか、その見た目以外のことは分からなかったから。喧嘩っ早い人で日常的に喧嘩をしている人かもしれないし、何を持っているのかも分からない。もちろん、これが精神科の閉鎖病棟だったら危険な物は持っていないから、暴力を振るわれるだけであって、命にかかわることにはなりにくいだろう。でも、ここは路上。相手が何を持っていて、どんな人で何をしてくるのか分からない。だからこそ、警察官だって一人では職務質問などはしない。必ず二人一組で。それは自分の身を守るためでもある。
 そんな怒りに心を乱されたわたしはふとこんなことを思った。この人はこの人で苦労してきたんだろうな。今、こういう態度を取ることには事情があるんだろうなって。そう思ったら怒りがトーンダウンして鎮まってきた。きっと恵まれない家庭で、恵まれない環境の中、必死に生き抜いてきたのだろう。だから、このわたしに「お前は気持ちが悪い」と言ってしまうのだ。ただバスを待っていただけの通りすがりの人でしかないわたしに。その言葉に怒りは覚えたものの、その彼がそう言ってしまうのは仕方がないことなのかもしれないと冷静に考え直すことができた。そして、わたしは祈った。「神様、どうかこの人に祝福を与えてください」と。
 もしかしたらだけれど(いや、多分そうだろうけれど)、わたしのアディダスコーデがあまりにもきまっていてカッコ良かったものだから否定したくなったのだろう。そして、さらにはアシュタンガヨガをやり、顔に輝きが出ていて、健康的でたくましく、いい感じの男だったものだから彼の価値がわたしによって脅かされたように感じたのではなかったかと思う。
 今回のこの出来事(いや、これは事件!)を通して、わたしは心身ともに強くたくましくなってきているのかもしれないなぁってね。思ったわけなんだ。
 ともかく、今日は疲れた。アシュタンガヨガも今日で初めて連続5日で道場へ行ったし、何しろヨガをやるだけではなくて、今日は母校の文化祭へも行ってきたのだから。疲れました、疲れましたよ。でも、何か心地いい疲れ。たしかに不快な嫌な出来事はあったけれど、それでも充実したいい一日だった。すごく長い一日だった感じさえする。
 あのわたしに喧嘩を売ってきたお兄さんも今頃は自分のお家にいることだろう。彼が幸せになれますように。あの調子だと大変そうな人生をこれからも送っていくだろうけれど、どうかその歩みが平穏で安らかなものとなりますように。そんな風に祈りつつ。
 また、今日のこの出来事はわたしへの戒めなのかもしれないともスピリチュアル的な次元において思ったりもする。アシュタンガヨガをやり、心も体も強く健康にたくましくなってきた。でも、どこか調子に乗り始めていたところもある。そこへ一撃、「調子に乗るなよ」という戒めが与えられたような。「もっと謙虚になりなさい」「謙虚でありなさい」とも大いなる存在から言われているようにも感じる。努力すること、努力できることは素晴らしいことだけれど、努力することができない人や難しい人だっている。努力できるのはいわば環境やその人の資質などが恵まれていることが大きくて、だからこそ、努力できることやそうしていることを全部自分の手柄のようにして誇ってはならないのだ。環境も含めて神様のような大いなる存在から与えられているからこそ、人は頑張ることができる。頑張らないことや頑張れないことについて、完全に自己責任だと言うことはできない。
 あのお兄さんが難しいとは思うけれど、今日わたしに放った言葉をいつか「ひどいことを言った。申し訳なかった」と思ってくれる日が来ることを願いつつ。わたしが高校を卒業してからのかれこれ20年で変わったように、あのお兄さんもいい方向に変わっていってくれていつか気付いてくれたら嬉しいなぁ。なんてお人好しすぎる? やられたら倍返ししなけやダメだろ? でも、それでは平和は訪れません。ヨガの道場で「シャンティ(平和という意味)」を唱えているわたしは平和を願いたい。平和。いい言葉ですよね。でも、この現実は幻であって…。最後の最後でそれはないだろ。ツッコミを入れつつ終わりたいと思います。読んでくださり感謝です。

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