はじめての資源・不燃ごみ

いろいろエッセイ
この記事は約5分で読めます。

 わたくし40年近く生きておりますが、な、な、なんと資源・不燃ごみを今まで出したことがなかったのです。
 は? 皆様の驚きとなかばあきれたようなそんな冷ややかな視線がわたしに向けられることは確実だ。でも、これは本当のことなのだから、仕方がない。嘘偽りを言うまでもなく事実で、わたしは今日、人生初の資源・不燃ごみのごみ出しをしてきたのだ。
 どうして今までやったことがなかったかと言えば、両親が離婚する前までは父がやってくれていたし、離婚後に祖父母の家に転がり込んでからは祖母が全部やってくれていたからだ。要するに、ひ・と・ま・か・せ。星さん、意外とそういうところ人任せで、今まで家の人にやってもらっていたのだ。
 もちろん、燃えるごみは何回も出したことがある。数え切れないほどある。けれど、資源・不燃ごみについてはわたしはまったく今までノータッチで、やってこなかったのだ。
 そんなわたしに転機が訪れたのは、二ヶ月ほど前のことだった。何と二月のはじめに不燃物の当番をしなければならなくなったのだ。というか、不燃物を今まで出したことさえない人にその当番が務まるのだろうか、とわたしは正直思った。でも、まさか、「わたし、不燃物のごみ出しをしたことがないので当番なんて無理です。できません」なんていうわけにもいかず、(そういう理由で断る人っているのだろうか。精神障害を理由に断るのならまだ分かるが。)引き受けたのだった。というよりも引き受けざるをえなかったのだった。この不燃物の当番にしても今までは祖父母が代わりにやってくれていたのだが、その当番を頼まれたときには、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行っていたので、ではなくて(笑)、おじいさんは施設に入所していて、おばあさんは病院に入院していた。さらに母までも入院していて、まさに一人暮らしだったから、わたし以外に誰がやる?、てなわけでわたしが不燃物の当番という大役を務めなければならなくなった。その時、町内を一軒ずつ回って不燃物の当番を割り当てていた組長さんにわたしは不安そうに「不燃物の当番、やったことがないんですが、わたしでもできますか?」と訊ねたのだった。わたし一人ではなくて数人が当番になっているので大丈夫です、とやさしく組長さんは言ってくれて、それだったらたぶん大丈夫だろう、とわたしは思った。いや、思おうとした。
 そんなこんなで2月のはじめになり、不燃物の当番の日になった。もう不安はマックスで、果たして無事につとまるだろうか、と緊張しっぱなしだった。が、何てことはなかった。案ずるより横山やすし、ではなく(←デーブ・スペクターさんが考え出したギャグ。ちなみにデーブさんてすべり芸の達人だと思う。芸人じゃないけど。)、案ずるより産むがやすしで何てことなかった。何だ、やすしじゃんてなくらい簡単な作業だった。ほぼ決められた時間の30分立っているだけで、どうってことない。おそらく、教会の聖書研究会などで牧師と神学的な議論のようなやり取りをしているくらいだから、それで鍛えられたのだろう。別に不燃物・資源ごみの当番は何か小難しい問題について議論しなければならないわけではなくて、ただごみを出しに来た人に挨拶したり、問題なく秩序を保てば、そして他の当番の人と他愛もない世間話をしていればいいのだ。
 この不燃物の当番をしてみて思ったことが、20代前半に対人恐怖症に近かったわたしが心の底から恐れていた世間、もっと言うならご近所様って別に怖いものじゃなかったんだ。ただあの頃のわたしが自分で自分の回りに厚い壁を築き上げていただけなんだ、ということに気付くことができた。世間って別に特別な人たちの集まりではなくて、普通の人たちの集合体なんだ。ご近所だってそう。みんな、普通の人たちなんだ。だから、怖がらないで自分から「おはようございます」とか「こんにちは」って近付いていけば基本的に拒絶されることはないし、最低限受け入れることだけはしてくれる。まぁ、親密になるのはまだわたしには少しばかりハードルが高くて難しいけれど、まずは挨拶から。挨拶から関係が始まっていき、そして広がっていくんじゃないかって思う。
 そんなわけで不燃物・資源ごみのごみ出しはどんな感じなのか、当番をやっていて分かっていたので、今日の人生初のごみ出し(資源・不燃ごみ)は安心して行くことができた。そして大量のペットボトルやスチール缶を出してきて、家がすっきりとしてとても気持ちがよくなった。山積みになっていたのがなくなるとこんなに爽快だなんて、ごみ出ししてこれて良かったな。
 物事ってやる前には不安とか心配でいっぱいになるけれど、やってみると意外とやすしなことが多いなって思う。まさに、案ずるより横山やすし。ってちっがーう。(笑)デーブさんのギャグの方が先に浮かんで来ちゃう。それはともかくとして、やすしなことが多いから案じながらもいろいろな物事にチャレンジしていけたらと思う。もちろん、大きな失敗をしないようにするために、案ずることも必要だ。でも、できる限り案じたらあとはやってみるのみ。で、意外とやすしだったなって思うんだよ。
 はじめての○○、いいなぁ。小さい子がはじめてのおつかいとか、お料理とか、お留守番とか、挑戦していくことで大きく成長していく。それは大人も同じで、大人だってはじめてのことをやれば成長する。わたしもこれからそんなに多くはないと思うけれど、はじめてのことをやる機会が与えられるかと思う。そんな時は充分案じた上で、えいっと思い切ってやってみるようにしたい。きっと新しい世界が開けていく。そして、そのことが繰り返されて新鮮さを失っていくとしても、はじめてを思い出せたらなと思う。そうだな、教会生活を送りながら洗礼の恵みを常に思い起こすことと似ているね。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました