1月1日1時11分17秒、新年スタート!!

いろいろエッセイ
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 みなさぁ~ん、おはようございます。あけおめでございます。めでたいでございます。新年でございます。
 と少しばかり高めのテンションで始まったかのような2025年だけれど、あなたの新年の目標は何でごぜえますだ? なんて少しふざけて、おどけながら幕を開けましただ。母方の祖父はよくよく「だ」をやたらとつける人でございましただ。そんな祖父も今や故人で形見の時計と共にわたしはいるだだよ。
 少々、「だ」がさすがに鬱陶しくなってきましただなわけだだしてだ、「だ」抜き言葉に戻そうかと思うだ。うん、抜けてないだ。んだ、んだ。
 わたしが新年になって、年を越して初めて思ったことは(つまり、目覚めて第一声ならぬ第一思)、「惜しい」ということで本当惜しかった。何が惜しいかと言うと、あと6秒だったんだ。あと6秒早かったらものすごく縁起が良かったのに、というどうでもいいようでどうでも良くない本当に些細なこと。
 目が覚めて枕元のデジタル置き時計を見ると、1月11日1時11分と表示されている。が、が、が、最後の秒のところが「17秒」!! ろ、ろ、6秒。あと6秒時計を見るのが早ければオール1になって揃ってたのにぃ~。悔しい。悔しいぃ~。星は地団駄を踏みはしなかったものの、あまりにも惜しすぎてちょっと残念な気持ちになったのです。あ、でも、目が覚めてから時計を見るまでに数秒はあったと思うから、もうこうなったら1が全部揃っていたということにしておきましょう。させてもらいましょう。そのほうがスッキリするし、縁起だっていいはず。まぁ、秒のところはかろうじて揃わなかったけれど、日本全国で1月1日の1時11分に新年を始めたという縁起がいい人なんてそうそういないでしょ。
 1と言えば、というか思い出してしまうのはわたしの高校時代の通信簿。まぁ、1が多かったですね。で、補習をするわけです。それもたくさんの教科を。一つじゃないのよ、た・く・さ・ん、エヘ(乙女疑惑浮上?)。補習をして何とか先生方に大目に見てもらって進級なり最後にはかろうじて卒業できたわけで。あの時の「1」は真っ赤な赤点の1で、本当に嫌悪感やら恥ずかしさやらを伴うものだったけれど、今日の縁起のいい1は同じ1でも違う意味を持っていて、むしろ1が揃ったほうが良かったわけで、まさか41歳になって新年早々ここまできれいに1が揃うとは全くもってして予想しておりませんでした。素晴らしき哉、「1」万歳。万歳、万歳。と41歳のつまり1の位が1のわたしが、1をだいたい揃えて1月1日1時11分にお目覚めとは何て素晴らしいことでありましょうか。
 さてさて、大晦日の紅白歌合戦が終わってから1時間くらいしか経っていない時間に新年を始めたわたくしですが、やはり元旦らしく新年の抱負とやらを語りましょうか。語らせていただきましょうか。
 えっ? それはいい? 興味ないから? もっと役に立ちそうなことを教えてくれ? 個人的な情報とか要らないから? スナックOのママがまだ体調不良で店を閉めたまま? 足が臭くて困っているから何とかしてくれ?
 そうですか、そうですか。ぜひともわたしが滔々と語る新年の抱負を聞かせてほしいと? えっ? だから、違う? もぉ~、照れちゃって。恥ずかしがらなくていいんだから。あなたとわたしはもうそういう仲だからいいでしょう?
 ぐだぐだと漫談のようなものが始まってしまいそうな予感がするので手短にわたしの新年の抱負を述べると、前にも書いたかもしれないけれどヨギーになりたいなっていうのがそれかな。
 ヨギーとはヨガをやっている人、やる人、つまりはヨガ行者のことで清く正しく穏やかな人で争い事はもちろんしないし、今までのわたしのように卑猥なことを言ったり、節度のないことをやったりもしない。誰かを攻撃して傷つけたりといったこともしなくて、とにかく優しくて懐が大きくて、ただただ平和を志向している。どこまでも自分自身の心の平和を追求していて、世界に革命を起こしたり、社会改革や改良をしようとするのではなくて、ただ自分のやるべきことを淡々とやっている。生きる指針としてはパタンジャリという聖者が記した「ヨーガ・スートラ」とインドの偉大な聖典である「バガヴァッド・ギーター」に拠っていて、そこに書かれているあり方や生き方を追求して目指していく。
 何か新年早々、大きな大きな目標というか抱負を述べてしまったと自分でも思うのだけれど、ヨギーにとっての一番の目標はヨギーとして生きることで最終的にはサマーディと呼ばれている至高の悟りの境地を求めていく。そんな清く正しく美しいヨギーを目指していきたい。目指していけたらいいなっていうのがわたしのささやかな願いであり想いなのだ。ヨガをやるだけではなくて、ちゃんとヨガ的なヨギーとしての生き方を実践して全うしている、そんな人になりたいなって思っている。
 となると、下ネタとか自嘲やら自虐なんかもNGとなるし、誰かを批判して攻撃して貶めるのもダメ。う~、いろいろダメなことが増える。でも、その制限があるからこそ、制限をするからこそ、そのヨギーである人は羽目を外してメチャクチャになることがない。また、言葉、思考、行動などが平和で非暴力的であるばかりではなくて、食べること、飲むこと、寝ることなども貪ってはダメで、ちゃんと節度を保たなければならない。暴飲暴食や短すぎたり長すぎる睡眠もダメでちゃんとわきまえて適度に慎ましく、ということなのだ。
 この生き方をするためには自己変革が必要で羽目を外して何事も過剰にやってしまうわたしにとってはなかなか高い目標だと自分でも思う。でも、何だかやっていきたい。やっていきたいと思っていて、どこまでできるかは分からないけれど、とにかく今年はまずその第一歩を踏み出していきたい。
 そのファーストステップとしてわたしは去年の暮れにまるで自分の内側にはびこっている膿のようだったアダルトなビデオや本などをすべて処分して捨てた。一大決心だった。だから、もう我が家にはいわゆるエロコンテンツはない。普通の男性にとってなかなか難しいことをやってみたわけだ。何だろう、何故かは分からないけれど急に捨てたくなったわたしがいて、この大量廃棄はわたしをものすごく身軽にしたと思う。さらにはかなりこの断捨離によって自分自身の内側も浄化されたようで前よりも邪念のようなものが浮かばなくなってきた。とは言っても、駅とか街でミニスカートとか短パンの足を露出している女の子をつい見てしまうのだけれど、それでもそうした欲望がかなり抑制されてきたのは感じつつある。
 まぁ、これは書かなくてもいいことでわたしが自分で分かっていればいいだけのことだとも言える。でも、備忘録的な意味合いと自戒の念をも込めてこの新年最初の記事にこのことを書いておきたかった。大目に寛大に見てもらえたら嬉しい。
 さて、元旦と言えば初日の出だ。まだ日の出まで4時間弱はある。ご来光を拝み、良い一年となるよう祈ってこれたらと思う。太陽が昇っては沈んでくれることは当たり前のことだけれど当たり前ではない。明日、太陽に何らかのことが起こって昇らない可能性だってある。そう思うと何てありがたく恵まれているのだろうと思う。人は太陽なしでは生きていけないのだから、この太陽が当たり前のように昇ることに感謝しなければならないし、その太陽を神様が造られたことを信じるのであればその神様にも誠心誠意感謝して心を傾けなければならない。太陽が昇ってくれているから今わたしを含む人類は生きながらえることができている。ありがたや、ありがたやと神様に感謝であります。

 2025年1月1日午前3時10分、これを記す。
 良い一年でありますように。
 平安あれ。ハレルヤ!!
 星大地

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