全身全霊の集荷?

いろいろエッセイ
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 待っている。わたしの恋人がやってくるのを待っている。んなわけないっしょ。待っているのは宅配便。今日、集荷に来てもらうことになっているのだ。だから、待ちつつ、この文章をしたためている。
 待つ。宅配便のおじさん(いや、今日はお兄さんかもしれない)がやってくるのを待つ。恋人ではないけれど待っている。
 いつもの人だといいなぁ。それでいつもの調子でいつものごとく、いつものままで、いつものばかりに荷物を颯爽と引き取って持って行ってくれる。でも、今日は別の人なのかもしれないなぁ。
 と一抹の不安が。うまく応対できるかなぁ。
 星よ、別にこれは仕事ではないのだ。だから、うまくやろうとか思わなくていい。ただ持って行ってもらう荷物をお願いして、元払いなのでお金を払って、で終わりなのだ。
 何だ、簡単じゃないか。が、その簡単なことが時折不安になるのだ。が、やすしで終わることが大半。別にどうってことなかった。大したことなかった、ってね。
 星よ、繰り返すけれど別にこれは試験でも何でもないのだ。だから、うまくやろうとか思わなくていい。吃音(きつおん)の症状が出てどもったとしても、宅配のおじさん(あるいはお兄さん)はそんなことでわたしを侮辱したりはしないぞ。ちょっとシャイで緊張しているくらいに見えるだけだ。それにもしも宅配の人がわたしの吃音をあげつらって馬鹿になどしようものなら別の意味でそれは問題だぞ。企業の存続にかかわる失態となるわけだ。だから、そんなことはおそらくないだろうし、そんなことはしないはずだ。
 この際、あなたに白状するけれど、わたしは今まで集荷ができなかった。というよりも、あまりに対人恐怖的な感じが強すぎて宅配便の人にもうまく関わることができないものだと思っていたのだ。
 それを星さん、頑張りました。別にふつうの人から見たらただ荷物を持って行ってもらうだけだろ、って話だけれど、この段階に至るまで本当に今まで話せば長くなる話があるのだ(これを聞いたらあなたはあぁ、星さん大変だったのね、くらいは思ってくれることだろう)。
 で、何を集荷で持って行ってもらうかと言うと、CDアンプ。これ、壊れていて修理しなければ音楽を聞けないんだ。もうかれこれ何年くらいこのCDアンプで音楽を聞いていないのだろう。7、8年、いやもっとじゃないか。それでね、メーカーがね、修理してくれないの。もう昔の商品ってことで。だから、わたしは一生懸命修理してもらえそうなところを探して、そこに頼んでやっと修理してもらえることになったの。
 このCDアンプが直って使えるようになって、音楽を聞けるようになったら毎日音楽を聞いちゃいますよ。ちなみになかなかの高級機なんだ。高校生の時にためたお年玉で買ったやつだからもちろん思い入れもある。
 さらに白状すると、このCDアンプ、捨てようかと思ったこともあるんだ。修理に出してもきっと高いだろうし、今は別のCDプレーヤーで問題なくやれているし、ってな理由を自分の中でこねくり回して一度は捨てようとした。けれど、捨てるのも、捨てることさえも粗大ゴミへ持って行かなければならないから面倒で、ただそれだけの理由で捨てずにただ部屋の一角にずっと置きっぱなしだった。何て横着な、そして何て行き当たりばったりなわたしの人生。そしてわたしの物たち。
 断捨離が見直されて、バンバン捨てる人がいる。けれど、物っていうのは捨てるのはいつでもできるけれど、それが必要になることがいつかはあったりするんだな。その時がやってくることもあるんだな。な~んて言ってるから今日もわたしのお家は物で溢れているんだよ。でもね、何だかそれが愛おしく思えてきた。いつか必要になるかもしれない。だから、捨てられない。この少なくない物。わたしが死んだら必要な人に使ってほしいな。それがせめてもの願い。結局、使わずじまいで使われることなく、主人が死亡。でも、そのくだらない、要らないようにしか見えないものにもわたしの思い出が詰まっているんだよな。
 と、今日も30分。今日もお後がよろしいようで。宅配便のおじさま(いや、お兄さま?)はまだ来ない。が、あと1時間以内には来てくれる、ことになっている。集荷ができるようになった星どん。未来は明るいぞ。ってオーバーだろうか? じゃあね、またね。

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