「100円のバナナが50円で買えたって喜んでる奴ってどうなのよ」なんて言わない人になるために

いろいろエッセイ
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 相変わらず節約生活が続いております。というわけで、今日もスーパーでバナナを買った。それも値引き品を。100円のバナナが50円になっていたけれど、それは買わずに200円のバナナが100円になっているのを買った。何かかなりリッチな気分。で、しかも帰ってきてからそれを食べたら、何と半分どころかほとんど腐っていなかった。何てラッキーなのでありましょう。半分以上食べられれば元を取ったことになる。ってどんだけちまちましたスケールの小さな話なんじゃい。
 でも、もしかしたらこれが幸せなんじゃないかとわたしは思う。最近、お金の本を読み始めて、少し毛が生えた程度になったわたしが思うことは、言うまでもなく何億円とかそういうレベルでお金を運用している人からしたらこんなわたしのバナナが半額で云々という話はどうでもいいかもしれないけれど、人間、この感覚というか喜びが分からなくなったら寂しいなって思うんだ。
 小さなことに喜びを感じる力、とでも言うべきこの能力は生活レベルによって大きく左右されるのは言うまでもない。普段、万札で好き放題お買い物をしている人にとっては小銭なんて要らないようなものだし、お釣りがいくらかなんてことはどうでもいい。でも、その小銭を大切に使って暮らしている人にとってはそれはとてもかけがえのないもの。どちらが幸せなのか? わたしに答えを出す資格がないのは重々承知の上でそれでもわたしの意見を示すのであれば、わずかばかりの小銭を大事そうに扱う人の方ではないかと思う。
 何て言うか、お金の本を読んでいるとものすごくドライだなぁって思う。だって、そこに損得以外の感情は入ってこないから。というか、必要ないものとしてのけ者にされている。
 ある人が人的資本としてどの程度の価値があって、どれだけ生涯において稼げるか? それはそれでいいのだけれど、別にそういう指標があってもいいのだけれど、それだけではないはず。けれど、金勘定だけになってしまうと、まるで稼げる奴が優れていて、稼げない奴はてんでダメということになり、そこに序列が発生する。そして、稼げる人は稼げない人を見下して、「お前はダメじゃないの? 全然稼げてないじゃん」と言う。あるいは言わなくても心のどこかで無意識的には思っている。
 何かをやらせる。それも同じことをやらせれば必ず優劣が生じる。かけっこでも何でもやれば必ずそこには勝ち負けが生じて、1番からビリまで序列ができる。でも、そもそもその競争というかそのみんなでやる同じことというのは根拠があるのだろうか? たとえば頭がいい人選手権だったら、頭がいいことが本当に価値があるのかどうか、ということだ。何でそこで頭がいい人選手権は人類をあげて大々的にやるのに、パン食い競争選手権はやらないのだろう? パン食い競争の世界一が人間として一番優れていて、頭がいいことよりも何よりも価値がある、そして名声を手にしてお金を手に入れることができる、とはどうしてならないのだろうか。
 だから、頭がいいとどうしてそこまで優遇されていい思いができるんだ、と問わざるをえない。さらにはどうしてお金があるとどうしてそれだけのことでしかないのに好き放題やれるんだとも問える。
 なんて、わたしのひがみ丸出しみたいで見苦しいのだけれど、そう思う。本当はもっといろいろな基準があってもいいのに、そうなってはいなくてただただ画一的な基準が力を振るっている。
 話を最初に戻すと、小さなことで喜べるのは幸せなことではないかと思う、とか言っても無職の呑気な戯言なのかもしれない。けれど、人は生き死んでいくのだからそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
 と、アーユルヴェーダのある話を思い出した。それはアーユルヴェーダの医師になるための最終試験で「森にあるもので薬にならないものを持ってきなさい」という課題。正解は何も持ってこないことで、そう、すべてのものは何らかの形で役に立つということを試験官が確認するための問いだったのだ。
 すべてのものは何かの役に立つ、か。考えてみればたしかに何の役にも立たないものってないな。それは人にもあてはまって何の役にも立たない人なんていない。しかし、人はえてして決まりきった基準で役に立つかどうか決めたがる。仕事ができるかとか、勉強ができるかとか、体力があるかとか、何か運動ができるかとか、みんなを笑わせることができるとか、そして、つまりはお金を稼ぐことができるかといった分かりやすい役に立つことを求めてしまう。でも、それは人間の表面的な見方でしかなくて、すべての人、さらには万物は必ず何かの役に立つ。人は多くの人に効果があって効くようなものを求めてしまうけれど、一部の人にとってはものすごく効くものだってある。そのどちらが価値があるかと問うなら、なかなか白黒つけられるものではないと思うのだけれど、どうなのだろう?
 仕事ができる、できない、で思い出したのだけれどこんな話がある。ある会社にどうも仕事ができない人がいたんだ。その人はミスはするわ、仕事が遅いわ、頼まれたことを忘れてしまうわ、で本当言い方が悪いけれど鈍臭い人だった。一言で言ってしまえば、端的に「仕事ができない人」。で、会社としてはその人を雇っているだけ無駄だと思ってクビにしたらしいんだ。そして、新しい、仕事ができる人を入れればいいと合理的に考えた結果そうなったらしい。が、そうしたらうまくいかない。新しく入ってきた人は仕事はできるのだけれど、かえって今までよりも職場全体の生産性は落ちてしまった。なぜだろう? だって仕事のできない人をクビにして新しく仕事ができる人を入れたんでしょう? 普通に考えたら今まで以上にうまくいくはずだよ。そう、もうお察しの通り、そのクビになった人は職場の人間関係の潤滑油の働きをしていたんだ。その人は誰かがピリピリしていると「そう、あせんなくてもいいんじゃないの」となだめたのかどうかは分からないけれど、ともかく職場の人間関係を穏やかにしていたんだ。むしろ、その職場ではその人がやめてから仕事ができる感じの切れ者ばっかりになってしまったせいで職場の人間関係は急激に悪化した、というわけ。
 とは言えども、そんな仕事ができない人ばかりでは会社も立ち行かないだろうし、その話は例外的なんじゃないの、と思う人もいるかもしれない。でも、みんながみんな生産性と効率第一主義でやっていればいるほど、そういったものにとらわれない考え方が光輝くと思うんだけれど、それはわたしがあまりにも社会というものを知らないから? たしかにわたしは社会というものを知らない。社会に出て働いたこともなければ、仕事なんていうものとは無縁の生き方をしてきたからだ。
 でも、わたしの中高時代を思い出すと、中学は地元の無試験の公立中学校で、高校は地元の進学校だったわけで、どっちの方が人間が優しかったかと言えば、中学の方だったりする。中学の人たちは何ていうか、いろんな人がいた。勉強ができる人、できない人。運動ができる人、できない人。真面目な人、不良っぽい人。いろんな人がいる中で、何ていうか勉強はあまりできないのだけれど心優しい人が多かったような気がする。一方、高校の人たちは試験で選抜されているから最低限の学力はあっていわば各中学から選び抜かれた優等生。でも、面倒くさいことや自分にメリットのないことには一切ノータッチだったし、わたしがお昼に一人でお弁当を食べていても誰も仲間には入れてくれなかった。自分が良ければ、自分が不利な状況にならなければそれで良し、みたいなのがありありとしていて、そんな感じの全国の進学校の人たちの中でもさらにできる人たちが選ばれて入った難関大学、その後には一流企業となっていけば、どう考えても殺伐としてくるのは目に見えている。まぁ、たしかにエリートの世界はエリートの世界で、スマートで無駄のない都会的な合理性があっていいのかもしれない。でも、あの公立中学校の人たちのようなほんわかとした優しさもそれはそれで尊いのではないか。だからこそ、役に立たない人はいないと思う。公立中学校のあの多くの人たちはおそらく卒業後にも社会で高給取りにはなれていないだろう。でも、彼らには彼らの持ち味があって、それなりに薬効のある薬草として役に立つ存在なんだ。金稼ぎとか、ハイスペックでクリエイティブな仕事にはまぁ、わたしが出た高校の連中の方が就けているだろうけれど、そのどちらの方が価値があるか、となると何とも言えないと思う。
 すべてのものが必ず何かの役に立つ、ということは、裏返せばすべてものには副作用があるということでもある。その副作用が猛毒なのか、それとも微々たるわずかなものでしかないのか、その程度の差はあれども何らかの副作用はある。そして、その副作用が強烈になったのが毒薬だったり毒なのだと思う。でも、毒にも使い道はある。使い方次第では人を殺すこともできるものなだけに慎重に扱わなければならないものの、それでも全く役に立たないかと言えばそうではない。何を言いたいかというと、毒でさえも使い道はあるのだから、何の役にも立たないものはない、ということだ。
 そう考えていくと、多くの人を幸せにできるかどうか、お金を得ることができるかどうか、というのは狭い意味での「役に立つ」でしかない。そう、それがすべてではないんだ。しかし、ともするとわたしたちは、影響力の大きさや経済的価値といったものに目を奪われてしまう。そして、それだけがすべてなんじゃないかと思ってしまう。でも、違う。多くの人は幸せにできていないけれども、たった一人の人を最高に幸せにできる人もいるし、お金に換算すると1円にすらならないことをやっている人でありながらも誰かを幸せにしていることだってある。そのどちらが優れているかと言ったら結論はやはり出ない。多くの人に影響を与えようとすれば同時にある程度の人たちを傷付けることは避けられないからだ。大きく動こうとすれば、たくさんの人を幸せにできる反面、一定数の人たちを不幸にしてしまう。が、小さく動くとたくさんの人を幸せにはできないものの、それだけ傷付ける人の数は少なくて済む。流行の音楽で考えてみれば、その力強いメッセージは多くの人に勇気と希望を与える反面、それと同時に「何でわたしはそう生きることができないのだろう」と避けられない副作用として一部の人たちの心を沈ませる。あるいは、そのアーティストがヒットして売れれば売れるほど、そのアーティストが憎くて仕方がないと思う人だって必ず出てくる。「成功していい思いをしやがって」と良く思わない人たちだっているのだ。
 と書いてきまして、わたしはどうなっていきたいのかと言えば、あめ玉くらいでいいかもなってね。わたしの人生、最高に効いて多くの人を幸せにすることに貢献する治療薬のようなものでなくてもいいような気がしてきた。あめ玉を悪く言うつもりはないので誤解しないでほしいのだけれど、わたしはあめ玉みたいに口に含んで「結構おいしいかも」と一時的であれその瞬間思ってもらえるような存在でありたいなって思う。平凡なあめ玉としてあめ玉として生きる。何かもう、この世の成功とかからは距離を置いているようだけれど、そんなことを思っている。そして、「100円のバナナが値引き品で50円で買えたよ。しかもほとんど腐ってなかった。最高にラッキー!!」とスケールの小さなことを言って喜んでいるような、そんな人でありたいと思う。少なくとも「100億円の株が値下がりして50億円で買えた」と喜んでいるような人にはなっていないことを願いつつ。100億円の株ではなくて100円のバナナが半値になったと喜んでいる方が幸せだと思うけどなぁ。
 いろいろ書きました。いつも読んでくれてありがとうございます(っていつも読んでくれている人っているのかな!?)。じゃあね。またね。

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